この夏に忘れ物を幾たびかしてしまった。何れも新幹線やバスといった乗り物の中で。一度は、姫路駅での改札口で切符を出す際にないことに気づいた。二度目は家に帰る途中で新幹線の中にアイパッドを忘れた。そして三度目は、バスの中に携帯電話を置いたままにしてしまった。いずれも最終的には手元に戻り事なきを得たが、あれやこれや大騒ぎをしてしまい、面目ないこと夥しかった。更にもっと酷かったのは、戸外でメガネを外してどこに置いたか分からず往生したことだ▼家人からは「もうこれからは首に巻き付けておいたら」とか、「次はいのちを落とさないようにね」と呆れられ、「そろそろ痴呆症ね」と真剣に懸念されている。そんな折も折、津野海太郎『百歳までの読書術』を読み、勇気づけられるというか、慰められた。この本は73歳の著者が自身の読書にまつわる日ごろの思いを書き綴ったものだが、そこは同世代、自ずと色々共感する場面が登場するのだ。最も同意したのは「六十代は過渡期に過ぎない。五十代と七十代のあいだでなんの確信もなく揺れているやわな吊橋みたいなもの」という表現。そう、私も還暦が過ぎてまだまだ若いと思っていた間に、10年が経って七十代に入って、一気に老いを感じるようになってしまっている▼山田風太郎『人間臨終図鑑』は、誕生月が来るたびに紐解く書物だが、近ごろその衣鉢を継ぐ新たなる書物に出くわした。関川夏央『人間晩年図巻1990-1994』である。前者は古今東西の歴史上の人物を死亡年齢順に集めたものだが、後者の方は90年代前半(後半は別に)に亡くなった人々の死にざま、生き方をコンパクトにまとめたもの。ついでに90年代がいかなる時代であったかがわかる仕掛けになっており、なかなかに読ませる印象深い本である。34人が登場するが、私より年上は 9人だけ。同い年で逝ったのは乙羽信子と吉行淳之介の二人。後は皆年下というのはいかにも寂しい▼というわけで、このところ改めて「生と死」を否が応でも感じさせられている。19歳で信仰の道に入り、50年余。途中、政治家生活にどっぷりつかってしまい、回り道をした感が強いが、引退して4年。そろそろ信仰者として完全復活をせねば、と思っている。そういうさなかに、畏友・志村勝之(カリスマ臨床心理士。電子書籍『この世は全て心理戦』の対談相手)がこの一年かけてブログとして書き綴ってきた『こんな死に方がしてみたい!』が完結した。自身の頭と心で考え抜いた手強い本である。同時代を生きた男が渾身の力を込めて書いた「生死論」であり、「死に方研究」でもある。とてもこれは見過ごせない。これから私も一年近くかけて彼の本を読み解き、自分なりの「生死論」と「死に方」ならぬ「生き方研究」をものしてみたいと思うに至っている。(2016・10・6)