ひとがどのような死に方をしてきたかということには、もちろん私も大変に興味がある。我が兵庫・但馬が生んだ異色の作家・山田風太郎に『人間臨終図巻』なる著作があり、古今東西の著名な人物たちの死んだときの様子がそれぞれの年齢ごとに並べられている。十代で死んだ八百屋お七、大石主税、アンネ、森蘭丸、天草四郎らから始まり、二十代、三十代がまとめられた後、三十一歳から九十九歳までは個別に挙げられ、再び百歳代は、野上弥生子、泉重千代らがまとめて登場する。私は自身の誕生日が来る度に、その年齢のくだりを読むことにしている。今年はもうすぐ71歳の誕生日を迎えるが、この歳の項は近松門左衛門以下26人が挙がっていて、全年齢を通じて最も数が多い。いよいよ危険水域にはいったということだろう▼2005年から1年間だけ、私は厚生労働副大臣(小泉内閣の最後の組閣)を拝命していた。まさにこのときに「後期高齢者医療保険制度」が作られた。辻哲夫事務次官(現在は東京大特任教授)を中心とする厚労官僚が叡智を結集し、自公政権として世に問うたものだが、ネイミングの響きから評判が良くなかった。辻次官と私は75歳を超えればひとは自身の人生の終え方を考えるべしとの意見で一致していて、本質的な部分では巷の批判など意に介していなかった。後に毎日新聞紙上の「発言席」欄(2008・8・10付け)に寄稿文(「骨格の変更は許されない」)が掲載され、思いの一端を述べたものだった。制度の意味合いの重要性もさることながら、仮に75歳を「死事期」の始まりと思う人々が増えたなら、持って瞑すべきだと誇りにすら思っている▼志村氏は、哲学者の中島義道氏(元東京電気通信大教授)の著作を、ご自分の心理カウンセラーの仕事のうえで参考にするとされ、しばしばブログでも引用されている。私は彼の著作は『人生を「半分」降りる』『孤独について』くらいしかまともに読んでいず、論評する資格など持ち合わせていない。だが、彼が若き日に哲学を志しながら、大学教師の生活を続ける中で、いつの日か真に「哲学すること」から遠ざかってる自分を発見した時には人生の終盤にさしかかっていた、との記述にはいたく共感した。それゆえ「人生は半分降りろ」っていうアドバイスをまともに受けてしまった。その結果が今の私の体たらくだということは笑うに笑えない話ではある▼それはともかく、志村氏が中島さんの死に対する恐怖について書いている文章の引用は私にとっても興味深い。「6歳の頃から50歳を超えた現在まで『死ぬのが嫌だ!』と心のうちで叫びながら過ごしてきた。その理由はしごく単純明快で、死ぬと(たぶん)まったく『無』になってしまうのだろうが、それが無性に恐ろしく・虚しく・不可解だからである」として、これを「宇宙論的恐怖」だと位置づけている。中島さんはこの「恐怖」をある意味バネにして、今や「戦うヘンクツ哲学者」の異名を欲しいままにし、数多の本を書いて著作料を稼がれているわけだから、何でも徹するということは凄い。志村氏は、「私には『死』のことを観念的に突き詰めていく能力が、幸か不幸かなかったから」、「『哲学病』にはかからず、『悩み』にどう上手く対処するか、ばかリを考える『カウンセリング・オタク』になってしまった」と自嘲気味に述べている。これはまた、私のような人間からすると、「へえー、そうなんだ」と大いに感心する対象となる。私は、死については、恐らく「無」になるのではなく、「空」に溶け込むのだから、いわゆる「恐れる」べきものではない、との日蓮仏教的捉え方をしてきたからである。(2016・10・24)