「無から有」でなく、生じるのは空からー志村勝之『こんな死に方がしてみたい!』を読む(5)

私が50年余り前の創価学会の座談会で入会を迫られて即座に決意したのは、幾つかの理由があった。最大のものは人間が生まれながらにして不平等なのはなぜか、という疑問を解決したいと思っていたからである。日蓮が「(不幸の原因は)誤れる宗教にある」と断じているとその場で初めて聴いて、どうしてそういう結論に導かれるのか知りたいという欲求が強く沸いてきた。星雲の志を抱いて上京してきた19歳の若者は、何でも旺盛に吸収したいとの願いを持っていたが、いきなり日蓮仏教が眼前に立ちはだかったのである。これを断る積極的な理由はなかった。座談会が終わって、志村の下宿先の4畳半の部屋で一枚の煎餅布団に二人して横たわった時に、彼はこう訊いてきた。「お前、創価学会に入ってこれから南無妙法蓮華経って拝むんか」と。「いやいや。勉強するだけや。まあ、本を買うたつもり」と答えたことを文字通り昨日のように覚えている▼あれからの長い長い歳月、実に色々な体験をしてきた。途中回り道はしたけれど、結局はずっと拝んできた。この間、常に頭から離れなかったのは、「死後の生命のゆくえ」であり、「南無妙法蓮華経とご本尊に向かって唱えると、幸せになれるのはなぜか」っていうことであった。最初の頃、大学生時代だが、出会う幹部に片っ端から訊いてみた。「解りたければ、折伏をしながら、拝むんだね」「読書百遍、意自ずから通ずるというじゃないか。それとおんなじ。(本を読むようにして)解るまで、〈何回も、何万遍も)拝むんだよ」といった答えが専らだった。主に、1965年から1969年までの4年間というもの、友人を次々と折伏した。勿論、日蓮仏教の真髄である生命哲学を懸命に学んだことは言うまでもない。だが、その間に、あろうことか「肺結核」になってしまった。「入院一年」を慶応病院の医師から宣告された。自宅療養で題目を遮二無二唱え、悪戦苦闘の末に発病から十か月ほどで乗り切ることが出来た。しかも有難いことに闘病の最中に池田先生(SGI会長)から直接激励を受けるという福運に恵まれた▼そういう体験の細部は追々語ることにして、ここでは、人間の生命は死ぬといったん空(くう)に溶け込むという、日蓮仏教の捉え方について少々述べてみたい。断るまでもないことだが、志村氏のように自分の頭で苦労しながら考え抜いた所産ではなく、この道の先達から教えられたことが出発点にある。一番初期の頃に私が出くわしたのは創価学会第二代会長の戸田城聖先生の「生命論」だった。「現在生存するわれらは死という条件によって大宇宙へととけ込み、空の状態において業を感じつつ変化して、なんらかの機縁によってまた生命体として発現する。かくのごとく死しては生まれ生まれては死し、永遠に連続するのが生命の本質である」(戸田城聖全集第六巻)。当初、にわかには分かりかねたが、その後の流れの中で、いわゆる「永遠の生命」なるものがイメージとして、じわり分かってきた気がしている▼溶け込む対象としての「空(くう)」ってなんだろうか。国語辞典に当たると、「空」は、その場を満たすもの(実体)がない状態をいい、「空」こそあらゆるものの本来の姿であるという仏教の基本的な考え方をさす、と。仏教語辞典を見ると、色々と説明があったすえに、「空」の分類・解説は限りないほどある、と付言してあった。目に見えるか見えないかで「有と無」は分かれるが、目には見えずとも、形ある物質を生み出す原因となるものは存在する。つまり、「無から有を生じる」というが、厳密には、何かが生じた場合は、もとは「無」ではなく、「空」であったということだと私は思う。何だかはやくも観念的な領域に入ってきてしまった。(2016・10・27)

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