(181)「関ヶ原」の怨念がすべてのエネルギーー原田伊織『大西郷という虚像』を読む➁

西郷隆盛という人物像を原田伊織氏の著作にそいながら順次明らかにしていきたい。まず、第一章の「火の国 薩摩」。著者は西郷を語るには薩摩を語らねばならず、それには「薩摩おごじょ」からだとして、串木野のママさんといういかにもきっぷのいい女性を例に挙げて語り始める。まずこのくだりが実に読ませる。私の衆議院議員事務所の初代事務員は、鹿児島の名門・鶴丸高を出てお茶の水女子大に学ぶ才媛だったが、いわゆる「薩摩おごじょ」には程遠いながら心優しい女子学生だった。既に40代半ばになってるはずの彼女も、今では立派な「薩摩おごじょ」になってるに違いない▼「薩摩」と来れば、薩摩芋、薩摩揚げと並んで「薩摩隼人」が思いつく。武に富み、猛々しい特性を指して「隼人」というようだが、この地域には言葉そのものに「武」に関する言葉から転化したものが多い。敵が一騎も来ぬうちに、直ぐに、迅速にという「いっこんめ」という表現やら、同じく敵が太刀を振り下ろす前にとの意味合いを持つ「たちこんめ」といったものを挙げている。「武」にまつわる色濃い風土から、西郷や大久保利通、黒田清隆、大山巌、東郷平八郎らが育った。私の故郷・播磨の風土はあまりそういうものとは無縁だ。時に応じて「最近の鹿児島には薩摩隼人はおらんなあ」と、皮肉を込めていったものである▼「肥後と薩摩」の章は、熊本と鹿児島の関係を考えるうえで役立つ。関ケ原で豊臣方についた「島津」は、艱難辛苦に耐えてそれこそ命からがら薩摩に逃げかえった。以来、「『薩摩隼人』の軍事上のターゲットは、一貫して肥後の熊本城であった」として、「肥後を討たずして薩摩隼人の戦とはいえない」と薩摩の人々の心の奥に潜んでいるものを明かしている。「大東亜戦争なんか、アータ、小さな戦じゃったよ。西南戦争に比べれば……」と『街道をゆく・肥薩のみち』で司馬遼太郎氏に語る老婆の言葉ほど「西南の役」の凄さを語ってるものはないという。こうした記述は、播磨人からすれば、遠い異国のできごとのように聞こえる▼「妙円寺詣り」という行事は、薩摩がなぜあの時代に先頭をきって倒幕に走ったかを考えるうえで、極めて示唆に富む。これは「毎年『関ケ原』の前夜(9月14日)、鹿児島照国神社から島津義弘の菩提寺、伊集院町の妙円寺まで、甲冑に身を固めて片道20キロ、往復40キロという道程を夜を徹して歩き、参拝する行事」を指す。これに対して原田さんは「辛酸をなめた関ヶ原の怨念が、倒幕にせよ、雄藩連合の主役として徳川に取って代わろうと企図したにせよ、幕末の薩摩を走らせたエネルギーではなかったか」と言う。このあと、長州の例も挙げ、薩長いずれにとっても「関ヶ原」は倒幕に動く、深く沈殿していた大きな心理的要因であった」とする。この辺り、「赤穂浪士」の伝統を今に引き継ぐ播磨との比較考察は「日本史」を学ぶ上で格好の材料ではあるが、薩摩でも、播磨でも、往事を偲ぶというよりも、今では「妙円寺詣り」も「義士祭」も単なる観光行事と化しているものと思われる。(2016・10.27)

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