先日、NHK総合テレビの『プロフェショナル・仕事の流儀』を観ていて大いに考えさせられた。介護ホームを経営する40代の男性の、要介護者の側に徹して立つ仕事ぶり(大概の介護ホーム経営者とはこの人とはかなり違う)と、そこで暮らす何人かの要介護者の前向きな暮らしぶり(大概のひとは後ろ向きに陥りやすい)とが強く印象に残った。後ろから前へと、向きが変わるきっかけは、実はそのひとが”得意とする手作業”をしたことだった。一言でいえば、老化に抗する力は、「腕に覚えがあるかないか」がカギを握ると思った次第である。老化の果てに自分を失い、その極致としてのいわゆる「痴呆症」(今は「認知症」といわないと差別用語。だが、個人的にこっちが分かり易いのであえて使っている)になってしまう危険を救うのは、そのひとをそのひとたらしめている「得意技」を生かすことだ、という風に思わせられた(ということは「得意技」をもたないと危ういことでもある)▼男性の平均寿命が80歳、女性が86歳代といったように長寿が当たり前になってきた今日、老化とうまく付き合う方法が極めて大事になってきた。男性の場合、勤め人生活を終えて定年退職になってからのほぼ20年ほどの間における身の振り方が文字通り死命を決する。”会社人間”であった人ほど、志村氏がいう「志事期」をうまく乗り切れずに、茫然自失してしまいかねない。会社からの解放なのだから、本来はより元気にならねばならないのだが逆の場合が少なくない。女性の場合、特に専業主婦などで、夫が亡くなると、よりきれいになり、生き生きするひとが多いといわれるが、これは「圧政(圧性)からの解放」に成功したケースなのかもしれない▼男も女も死に至る前の一定期間を充実させるには、「得意技」をどう磨くか、あるいは新たに身に付けるかだと思うが、磨き方をめぐって私は生きたモデルが二人いると思う。一人は医師の日野原重明さん、今一人は書道家の篠田桃紅さんだ。共に百歳を有に超えておられるが、ますます盛んなお姿は、「現代日本の老人たちの英雄」に違いないとさえ思われる。このお二人は先年対談をされていたのをNHK総合テレビで観たが、色んな意味で対照的だった。片や理性のひと。方や感性のひと。日野原さんは数年先の日程まで、ことこまかに予定表に書き込んでいる。その歳にして今なお未来に生きる感じだった。篠田さんは明日の予定も書かないし、一向気にもしない風情。ひたすら今に生きるという姿が際立っていた。ともあれお二人は対照的に見えた▼お二人に共通するのは過去を見ないということだろうか。私はかねて物事に集中する時間を多く持つと、そのことに費やした時間はあとで帰って来るに違いないのではないかの仮説を持っている。つまり、我を忘れて没頭した時間は、あとでご褒美として天は恵んで下さる、と言った風に。逆にぼーっとして過ごすとそのひとの持ち時間は削られてしまう、というように。これって全く根拠はなく、思いつきのでたらめなんだが、秘められた確信としてわが体内に宿っている。古今東西の芸術家や優れた科学者らを見ていると、何やら時間を超越した存在が多く、そんな感じがしてならないのである。(2016・11・13)