つくづく現代日本は歴史好きが多いのだと思う。いや、正確に言うとごく一部の歴史好きの連中を大きく引っ張ろうとする出版ジャーナリズムの策謀が根強いというべきか。呉座勇一『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』なる新書がベストセラーになっているとの噂を聞いて、読もうとしたのだが、私としては、およそ歯がたたないために辟易したと告白しておく。いや、これも正確を期すと、日本史とりわけ室町期に明るくない普通の読者にとっては、という注釈が必要だろう。それというのも私の先輩筋の友人で、歴史に明るいと自他ともに認めるF氏においては、「この本は凄い、奈良から見た応仁の乱はこれが初めて。実に面白い」と絶賛していたからだ。で、この本の読後録をスタートするにあたって、正確を期す。室町時代に関心を持つなら、この本の前に改めて、「応仁の乱」前後の歴史をおさらいしてから読まれるべきだ、と。それをした後なら、面白い。確かに■実は、先週末、上京する機会があり、昔ながらの友人数人と久しぶりに会って懇談した。その余韻を残しつつ東京を離れたのだが、京都で途中下車してこれまた古くからの友人O夫妻(夫は鳥羽、夫人は横浜在住)と会うことにした。この友人たるや奈良、京都を訪れること500回をくだらないという大変な御仁。彼に連れられて、私も善光寺参りならぬ諸々の寺社詣りに手を染めた。しかも10回は優に超える身であることもまた告白しておく。今回は、また偶然ながら(つまり彼は私が『応仁の乱』を読んだ直後の京都旅だとは知らない)、上七軒近くの料理屋で落ち合った。食後に足を運んだのがすぐ傍にある大報恩寺。西陣地区のど真ん中に位置する通称「千本釈迦堂」である。今までもそうだが、私は過去にこの友人に連れられて名だたるお寺や神社に行っても、自慢じゃないが殆どその由来やら歴史的価値を知らない。恥ずかしい限りだが、これまで関心を敢えて封印してきたのだ。このお寺のことも勿論知らなかった。彼も私の”神社仏閣音痴”を知り抜いているゆえか、深いところを説明せず、「おかめ塚」についてのみあれこれと紹介してくれた■京都から帰って、私は思い直して井沢元彦『逆説の日本史➇中世混沌遍』を改めて読み直してみた。数年前にこのシリーズにはまりしゃにむに読んだものだが、この大乱をめぐるくだりを含めて、ものの見事にきれいさっぱり忘れていた。大法恩寺がなぜ国宝なのか、大乱時にどういう役割を果たしたのか、全部丁寧に書いてあった。つまりかつて私も読んでいたのだ。すなわち、大乱で洛中のほとんどが焼けつくし、このお寺ぐらいしか残らなかったということ、そして山名宗全率いる西軍が陣をしいたのがここであったことなどなど。国宝になった由縁である。誰も訪れる人がいなかった数日前の静寂そのものお寺を、550年前の往事を偲びながら思い起こしたのも一興ではあったと述べておく■そうしたこの時代の歴史的背景を頭に入れて読むと、私のようなド素人でもそれなりに噛み砕ける。とはいうものの、やはり相当の歴史マニアでないとよくわからない。この本は新書ではあるが、学術書の雰囲気が滴るからだ。というのも随所で歴史学者たちの、つまりは呉座氏の学者仲間たちの通説やら見立てについての評価が顔を出す。曰く、誰々氏はこう述べているが、「単なる性格の問題ではあるまい」、むしろ恐らくこうであろうとか、これまでの歴史学上の見方を批判的に捉えたりする見方を提示している。たとえば、近年の研究成果として、戦国時代の幕開けは「応仁の乱」(1467~1477年)後よりも「明応の政変」(1493年)後であるとの見方に対して、明確に否定しているくだりなど首肯せざるをえない説得力を持つ。こうした分野での仕事なら当然なのだろうが、数多の原史料(当時の日記やら寺社の史料の類い)を読み込んだうえで、煩雑さを厭わずいちいち、文章の後ろに()書きで付け加えることを忘れていない。こうした本がベストセラーになるなど、日本という国は凄いと妙に感心してしまう。ホンマかよ、と。実際は出版界の仕組んだ罠ではないか、などとあらぬ疑いさえ抱くのだ。自らの勉強不足を棚上げにして。わたし的には、「中華人民共和国の国連加盟問題のようなもので」(49頁)、とか「スイスの武装中立のようなものだ」(223頁)といった比喩の仕方が興味深かった。次の著作では日本中世史にみる国際政治史との類似点などに焦点を合わせてほしい。(2017・6・10)