(214)中道を待望する思い高まるー青木理『日本会議の正体』を読む

とある会場で安倍晋三首相とすれ違ったときのことだ。「赤松さん、こんな会合に来ていいのですか」と、ニヤリと笑いながら彼が私に投げかけてきたことを10年近くたった今、おぼれげながらだが思い出す。私は「日本会議」主催の尖閣列島問題についての対中国・抗議集会に公明党を代表して出席していた。安倍さんとは、故中嶋嶺雄先生がコーディネートしていた「新学而会」なる学者、政治家との懇親・勉強会でときどき一緒になる関係だった。「余計なお世話だ」と思わないでもなかったが、あの時の会場での居心地の悪さが、安倍さんの冒頭のセリフと共に、今もなお私の脳裏に影を落としていることは間違いない。これが「日本会議」と私の出会いなのだが、その後の歳月のなかで、着々と存在感を増しつつあるこの集団が気になっている。そんな折に、書店で見つけたのが青木理『日本会議の正体』である▼元共同通信の記者がフリージャーナリストとして、この集団を追いかけたルポだ。「極右」であり、「超国家主義団体」ではないか。「安倍政権の中枢でますます影響力を強め」ていて、「内閣を牛耳」ってるような組織なのかどうかを探ろうというのが目的だーとプロローグにある。結論はどうなのか。「戦後日本の民主主義を死滅に追い込みかねない悪性ウイルスのようなものではないか」というのが著者の出した答えである。昭和40年代に大学生活を過ごし、人生の曙期を経た私の世代は、良いも悪いも「戦後民主主義」の只中で呼吸してきた。「左翼暴力革命」を夢見る「日本共産党」や「極左」「新左翼」などといった集団、さらにそこに影響を受けてきた「日本社会党」などのイデオロギーに凝り固まった塊とどう対峙するかが常に頭にあった。いらい50年の歳月が流れた。戯画化を厭わずに述べれば、「左」との対決に一応の決着がついたと安堵した瞬間、今度は一転「右」が大きな存在として立ちはだかっているというのが現実である▼「日本会議」は、初代会長がワコールの元会長の塚本幸一氏。今は4代目の田久保忠衛氏。元時事通信の記者で現在は杏林大名誉教授だ。メンバーは硬軟取り混ぜての印象を持つ文字通りの多士済々の面々。元をただせば、宗教法人「生長の家」をルーツに持つ。今はほぼ完全にその手からは離れており、神社本庁があらゆる面でバックアップしているとみてよいようだ。草創の頃は紛れもなく創価学会・公明党の存在を意識していたことは間違いない。今は政権与党の一翼を公明党が担っている分だけ、事情は複雑だが「日本会議」の構成メンバーの深層心理が「公明党嫌い」にあろうことは、言わずもがなであろう。双方がお互いの思惑で利用し合っていると見るのが自然だと思われる▼日本政治史を振り返るときに、左右対決のはざまにあって塗炭の苦しみを味わった民衆の救済に立ち上がったのが創価学会であり、公明党という存在である。今の政治の表面的在り様を見ていると、左翼勢力が立ち枯れている印象は隠しがたく、右翼勢力の鼻息が荒いことは否めない。その根底部分に「日本会議」があることは間違いない。しかし、肝心なことは、民衆の生活安定であり、人生の安寧、安心にどう心を寄せうるかということである。「左」の没落の後に来るものが、「右」あるいは「極右」の戦前回帰の国家主義などになることは真っ平ごめん蒙りたい。左右双方を止揚したところに立脚した中道主義。そこに原点があることを片時も忘れずに、日常的な政治、政策展開をしていかねば、と深く心に期している。憲法改正論議のリードの仕方など強かな印象を強める安倍晋三首相を思うにつけ、右急旋回を用心し、ストッパーの役割を公明党は忘れてはならぬと自戒したい。(2017・6・15)

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