(25)憂鬱さが増すだけの田原VS西研の哲学対談

田原総一朗ーこの人物のテレビ番組に、私は現役の時に二回ほどでたことがある。その時に一度口喧嘩をした。この人は政治家を怒らせることで番組のトークを面白くさせるとの手法をよく用いるようだが、私の時もそのたぐいで、餌食にされそうになった。こともあろうに放映中に、私に対して「冬柴さん」と、あきらかにわざと呼びかけてみたり、きちっと答えているのに「もっと勉強してきてよ」とか言ったのである。

この自尊心の塊のような私に対して(笑)、である。コマーシャルの時間になって、「あんた!いい加減にしろ!」って、つい怒鳴ってしまった。一応、「ごめんなさい」と彼は頭を下げたが後味の悪さは尾を引いた。以後、彼の番組にはぜひ出てほしいと言われるまで、でないとこころに決めたのだが、そのうちこちらが引退してしまったので、当然ながら声はかからないで、今に至っている。

そういう不幸な出会いだったが、彼の書くものや人とのやりとりは面白く読んだり、見たりしていているのだから、私も勝手なものだ。その田原総一朗氏と哲学者の西研さんとの対談『憂鬱になったら、哲学の出番だ!』(幻冬舎)を読んだ。それこそ田原氏の鋭い切り込みは縦横に見られる。しかし、それに対しての答えがあまりぱっとしない。難解な哲学が分かり易く説かれることを期待するむきには羊頭狗肉だ。成果と言えば、田原さんも人の子、西欧哲学は解らんのだということがはっきりしたことか。結局は西洋哲学はただ難しいだけで、一般人には役立たずだということが改めて浮き彫りになった。憂鬱さはますばかりだという他ない。

ただ一か所だけ私としては、非常に興味深いくだりがあった。それは、田原氏が梅原猛さんの書いた『人類哲学序説』に触れたところだ。私はこの本に大変共鳴しているので、それこそ目を凝らして読んだ。西欧哲学の進歩発展主義の破綻を象徴したのが福島原発事故だとして、近代合理主義と決別するとしている梅原氏の主張を紹介。そのうえで、「梅原猛は東洋の思想を見直して、仏教の天台密教の『草木国土悉皆成仏』という考え方に着目したのです。山川や草木にも仏を見るという日本独自の思想で、ここから独自の人類哲学をつくろうとしています」ーデカルト以後の近代哲学が現代世界において、役に立たないことに気づき、新たな船出をしようとする梅原氏の意気や壮としたい、と私は思っている。

ところが、それに対して西研氏は『哲学は、一人ひとりの経験や感度や考えを出し合いながら『これは確かに大切だよね』ということを確かめ合っていく営みです。そういう風にして普遍的なものを取り出そうとすることが大事なので、それを、特定の世界観で代替してはいけないと思います」と答えるにとどまっている。これは、私には西欧哲学の側の敗北宣言に聞こえる。要するに世界的規模での現代人救済に役立たないがゆえに、確かめ合うなどといったぬるいことを言っているのだと思う。

それに対しての田原氏の最後の切り込みは「デカルトやカントらの哲学はヨーロッパ内では受け入れられたけれど、民族を超えて広がらなかったのではないですか」と言うだけ。西研氏の答も「お互いの経験をもとに考えを出し合って、普遍性を求める哲学の復権をめざしたいと思っているのです」と繰り返すのみ。

これって、結局は西研氏は、西欧哲学を超えるものが東洋の哲学にあるということに目を向けようとしないで、西欧哲学の復権にしがみついているだけのように思われてならない。その辺りをもっと田原氏には切り込んでもらいたかった。

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