アイルランド出身の劇作家で小説家ーサミュエル・ベケットの戯曲全集が新たな装いで出版された。その第一巻『ゴドーを待ちながら』が訳者の岡室美奈子さんから届いた。岡室さんとは以前にも書いたように旧知の間柄である。ダブリンの日本大使館で当時の林景一アイルランド大使(現・最高裁判事)からご紹介を受けて以来、東京都内で、また早稲田大学構内で幾たびもご一緒させていただいたことがある。ベケット研究の第一人者であると共に、演劇やテレビドラマについても造詣が深い。毎日新聞夕刊に月一回『私の体はテレビでできている』との、テレビドラマについてのコラムを担当されており、私は愛読している。坪内逍遥博士記念演劇博物館の館長という肩書からは想像できないほど優しくチャーミングな女性である■本当は一度でも舞台でこの演劇を観てからにしようかとは思ったものの、取りあえず戯曲をざっと読んで、これを書いている。想像通りというべきか。まったくといっていいほどわけがわからない。いわゆる筋書きが明確な代物ではない。要するに、ただひたすらゴドーが来るのを待っているだけの演劇で、結局は来ない。いや、来るかもしれないところで舞台は終わっている。なにしおう不条理劇の最高傑作というのだから、怖いもの見たさならぬ「難しいもの読みたさ」でページを繰っていったのだが■いきなり「何やってもダメ」という男のセリフから始まる。相棒の「生まれてからずーっと、そうならないように頑張ってきたんですけど」の言い回しへと続く。退屈で同じことの繰り返しの人生の実相が描かれ、そのありきたりの日常の中で「ゴドー」なる存在の登場をひたすら待ち続ける。最後は「明日、首を吊ろう。(間)ゴドーが来なかったらね」「もし来たら?」「俺たちは救われる」で終わる。(舞台でのしぐさに伴うセリフは少し続くものの、意味あるやりとりはここまで、だ)ということから「ゴドー」はゴッド=神さまを意味するものとして捉えられてきている。すなわち、平凡な人生を過ごしながら、ひたすら神の登場を待ち続ける人間の営みの実態を描いたとされる劇だというのが一般的な受け止め方だろう。私も今はそういう解釈しかできない。ベケットに『モロイ』なる作品があり、それを絶賛した挙句、自分の筆名を「諸井」にした作家の友人がいる。幾度かモロイ論を聞いたものの、私にとって「意味不明」状態は変わらない。それに比べると、まだ「ゴドー」は分かる。いや分かる気がする■人間の住む世界はそれぞれの解釈によって全く違った色彩を帯びる。この世は「A」だという位置づけから始まって、「Z」に至るまでありとあらゆる意味づけに及ぶ。ベケット描くところのこの演劇は、キリスト教が覆う世界の見方における一つの典型と言える人の世の解釈づけではないか。私などは人生の曙期にあって、実存主義の哲学を齧って西欧哲学+キリスト教の世界を垣間見た。待ち続けても神など来ないものだと最初から覚知して、我が人生劇のスタートを切ったものだ。神の代わりに、自身の命の中にある仏性を顕在化させ、縦横無尽に人生を楽しみながら、多くの同志と共に戦うとの「物語」に生きると決めた。言い方を変えれば、「神」的なる存在はどこかからやって来るものではなく、自らの体内から湧き出でてくる最高のパワーを意味するもの、だと。だとするならば、漫然と待っていても始まらないのである。いま50年有余の歳月を経て、「待った甲斐があった」といえる人生を実感していることは無上の幸せという他ない (2018・5・5)
【岡室美奈子さんと初めて出会ったのはアイルランド・ダブリン。日本大使館で、林景一大使から紹介されました。この人はベケット研究者ですから、その出身地を訪れるのは珍しくないのでしょうが、偶々一度だけ英国に行った際に足を伸ばした私と出会ったということに、不思議なご縁を感じてしまいます。いらい、幾たびかお会いしてきました。
私は、テレビは、NHKスペシャルを始めとするドキュメントタッチのものや、政治・外交評論分野のものを見ることが殆どです。先日、『毎日』に『沖縄本土復帰50年ドキュメンタリードラマ』が取り上げられていました。「他者=沖縄 50年を省みる」とあり、基地問題を自分の問題として捉えられない本土人をご本人も含め反省されていたことに、同感の思いを抱きました。
先年、早稲田大学キャンパスに「坪内逍遥演劇博物館」を訪問して、岡室館長に案内頂いたことがあります。坪内逍遥の銅像前で、カメラにツーショットで収まった時に、作家の司馬遼太郎のことを思い出しました。『アイルランド紀行』での若き日の女学生・岡室さんと司馬遼太郎の出会いの場面です。時間と空間を超えて、司馬さんの思いが伝わってきた瞬間でした。(2022-5-21)】