北一輝という人物には不思議な趣きがある。社会主義者から右翼、国家主義者へ。その途上で法華経信者になり、中国革命にも暗躍したとあっては一筋縄ではとても捉えられない人物である。親しかった同世代の歴史学者・松本健一さんが北一輝研究の第一人者ということもあり、私にとって気になり続けてきた存在だ。といっても、その著作『評伝 北一輝』(全五巻)など、まともには読みもしていない。いささか旧聞に属するが、NHK総合テレビで、その松本健一氏が登場した企画番組『日本人は何を考えてきたか』シリーズの第10回「昭和維新の指導者たち」を観る機会があった。「大川周明と北一輝」の二人を並行して紹介したものだった。その際に司会進行役の田原総一朗氏のインタビューに答えていた幾人かの専門家のひとりに萩原稔氏がいた。
この人、今は大東文化大の教授で日本思想史研究を続ける少壮の学者である。代表作は『北一輝の「革命」と「アジア」』。実は彼は私の高校時代からの親しい友・萩原廣氏の長男である。かねて「息子が同志社で北一輝を研究しているのだ」と聞いてはいたが、会ったこともなくその著作も知らなかった。息子がいない私にとって、友人の子ではあれども可愛いく眩しい存在である。ましてや「日本思想史」という興味深い分野で、頑張ってると聞けば会いたくもなる。親父さんを通じてかねて面談の機会を覗っていた。先般上京の折りに溜池山王で会うことが叶った。自在無碍な喋り口調にお互いが乗って、あっという間に時は過ぎさった。
生前の松本健一氏に会わせたかったとの思いが一層募った。別に私が介在せずとも同一分野を学ぶ後輩とあれば、彼としても喜んであってくれたはずだろうが。思えば、松本健一氏には、あの朝鮮半島問題の碩学・古田博司氏(筑波大教授)の願いを聞き届け仲介したことがある。幾つになってもお節介焼きが抜けきらない自分がおかしい。
●『一国革命』と『世界革命』の連関性
北一輝については先行の研究者たちの著作が数多ある。だが、北一輝と「アジア」との関わりに関する研究のほとんどは、辛亥革命の勃発(1911年)から「改造法案」執筆(1919年)までに集中。萩原氏は「それ以外の時期にはあまり目配りがなされていない」し、中身的には「北の対外論、とりわけ中国をはじめとする『アジア』論については」「いまだに不十分な点があるといえる」としている。つまり萩原氏自身の著作の独自性は、「北の『一国革命』と『世界革命』の連関性を分析すると同時に、彼の『革命』論における『アジア』の位置づけを明確にした」ことにある。その意気や壮であり、果敢なる挑戦ということには大いに敬意を表したい。北一輝の全貌をとらえるには最適の書だと薦めたい。ただ、萩原氏の筆の運び方において全体に目配りしすぎ故の、回りくどい表現が散見され、私にとっては分かり辛さが若干あったことは指摘せざるをえない。しかし、それは北一輝という思想家の未完成さにも大いに関連しているように思われる。
確かに、明治維新から40年程が経った頃の日本は庶民大衆の生活の上における貧しさが特段に目立った。その状況下では文字通り「新たな革命」が必要とされた。理想実現のためには思想における左翼も右翼もない。西洋に端を発するものだけに依拠することも躊躇された。北が東洋思想の源泉・仏教の深奥に位置する法華経に目を向けたことは大いなる慧眼だったと確信する。しかし、私の見るところ何れについても生煮えの印象が強い。50年の歳月を法華経に打ち込んできた身からすると、北の法華経への傾倒は共鳴する部分が確かにある。壮大な社会変革への思いを惹起させる日蓮の名文を読み、奮い立たぬものはいないであろう。
ただ、その前提としての「人間変革」、「人間革命」に思いを致さぬ場合は結局、日蓮を誤って捉えてしまうことになる。「日蓮を敬うとも悪しく敬わば国滅ぶべし」との金言こそ北のケースに的中するといえよう。北の生きた時代にあって、懸命に第二の維新を求めた心意気は尊いものの、結果としてすべての巡りあわせが不都合に終わった。彼の果たそうとした役割は、第一の維新時の吉田松陰だったか、西郷隆盛だったか。ともあれ敗北者ではある。「敗北ゆえに、北は近代日本の思想家のなかでも大きな魅力を持つ人物のひとりとなっている」との萩原氏の指摘はとりわけ印象深い。
【他生の縁 高校同期の子息との交流】
私の著作『77年の興亡』について、萩原稔さんがあれこれと感想を寄せてくれたことは嬉しくも厳しいものがありました。そのうち、最たるものは公明党における党内民主主義の弱さへの指摘でした。党の代表が選挙によって選ばれないというのは、納得いかない、と。
ゼミ生への萩原さんの「公明党論」の一助になればとの、メール交換論争は、大いなる老いの「鍛え」になったと言えましょう。