【169】硬直化した政治状況を打破するために━━東浩紀『訂正する力』を読む/3-17

 『公明』4月号のインタビューに触発されて、東浩紀さんの『訂正する力』を読みました。面白い。知的刺激をたっぷり受けました。「修正する力」さえ持ち合わせていない政治家は大いに学ぶべきだと思います。この本は「語りおろし」。そのため若干未整理の部分もあり、私の早とちりも否めませんが、お許しください。

⚫︎9条では政府、自民党が「訂正する力」を発揮

東氏)政治とはそもそも絶対の正義を振りかざす論破のゲームではありません。あるべき政治は、右派と左派、保守派とリベラル派がたがいの立場を尊重して、議論を交わすことでおたがいの意見を交わすことでおたがいの意見を少しづつ変えていく対話のプロセスのはずです。しかし、現状ではそんなことはできない。(7頁)

赤松)この本は2023年10月末出版。当時と違って今は衆院で政権与党が少数です。今年度の予算編成をめぐる与野党の攻防も趣きを異にし、「高校教育費無償化」を巡っては維新、「103万円の壁」を巡っては国民民主との間で「対話」がありました。立憲とも「高額療養費上限額引き上げ」について折衝がありました。その結果、一部で野党の意見が取り入れられたのです。これまではひとたび組んだ予算案は一円足りとも「修正」しないのが当たり前でした。「修正」より、「訂正」はそれまでのスタンスの誤りを正すニュアンスが強いのですが、それについては?

東氏)皮肉なことに9条についてはむしろ政府のほうが訂正する力を発揮しています。(「解釈改憲」で「集団的自衛権」を認めることで方針を変えたことを意味します)  リベラルのほうも訂正する力を発揮し、条文自体を変えてしっかりできること、できないことを規定したほうがいい。(35頁)

赤松)実は公明党は、「安保法制」の改定で、「集団的自衛権」を認めていません。いわゆる玉虫色解釈にこだわり、個別的自衛権の延長だとの態度をとりました。公明党も「訂正する力」の発揮には躊躇したのです。

⚫︎「余剰の情報」を沢山発信する立場の強み

赤松)言論の世界でも、(変化の連続で)「訂正する力」を発揮できず、自縄自縛に陥っているケースが多い?

東氏)言論人はそんな変化に対応し、訂正を繰り返す必要がある。にもかかわらず彼らが軌道修正を頑なに避けるのは、そんなことをしたら支持者を失ってしまうと恐怖しているからでしょう。立場を守ろうとするあまり、現実に対応ができなくなっているわけです。(だが、「交換不可能な存在」になると違ってきます)(153頁)

赤松)東さんは、ロシア情勢に詳しい佐藤優(元外務省主任分析官)氏がウクライナ戦争開始いらい「ロシア寄り」だとの批判を受け続けていますが、いまだに活動を続けているのは、佐藤さんが「余剰の情報」を沢山発信してきており、交換可能な専門家ではなく「佐藤優」という固有名で存在しているからだとしています。「ウクライナ戦争」について彼は、当初から「即時停戦」を説いており、創価学会の池田先生の主張に同調してきました。「ロシア寄り」かどうかではなく、生命の尊厳のスタンスからの発信だと私には思えます。

⚫︎平和主義の「訂正」の提唱

東氏)戦後日本は経済復興や国際復帰を達成するために平和国家という物語をつくった。これもある時期までは柔軟に運用されていたが、いまはすっかり硬直化している。(中略) いま、日本に求められるのは平和主義の「訂正」だと思います。(214頁)

赤松)東さんは最後に「平和とは戦争の欠如である。政治の欠如である。政治と離れた喧騒に満たされていることである」とする一方、「日本はもともと文化の国」「政治と交わらない繊細な感性と独自の芸術をたくさん生み出す国」だったと述べています。日本は武力を放棄したという理由で平和国家なわけではなく、そもそもそういう国だったからこそ平和国家なのだと、「平和主義」観を訂正して見せています。

東氏)右派が軍備増強を唱え、左派が平和外交を主張する。例によってゼロかイチかの対立になっていますが、本当は二者択一ではありません。どっちもできる。(217頁)

赤松)それって、公明党のスタンスでした。ほどほどの軍事力と縦横無尽の外交力の発揮です。かつて、公明党の平和主義は「行動する国際平和主義」だと規定しました。座して死を待つのでもなく、かと言って、軍事力増強のみに走らないものだと強調し、一定の軍事力のもとに、外交力と文化力の相乗効果を発揮する必要性を訴えたものです。中道主義の面目躍如たるところです。

 【余録】なお、この本は最後に日蓮を作為=政治の思想、親鸞を自然=非政治の思想とやや大雑把に誤解を呼ぶ捉え方を示しています。私なら前者はリアルな平和思想、後者を能天気な非武装平和思想と位置付けます。更にまた、ルソーを「訂正する力のひと」だったとして、作為と自然の対立を止揚する「自然を作為する」立場に立っていたと、持ち上げています。日本復活には、伝統を活かし、世界に発信していくこと。訂正する力を取り戻すこと。平和を再定義することだと結論づけていますが、竜頭蛇尾の感は免れない結論です。(2025-3-17)

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