近代とは何かと問われたら、日本の場合は欧米の文明の影響を受けた明治以降の時代と答える。辞書風には、封建時代の人間性無視、非合理性を廃し、個人の生活・思想における自由を重んじ、設備の機能化、エネルギーの節約を図るようにすることを近代化という、と。では欧米のつまりヨーロッパの近代とは何であったか。一言でいえば、「議論による統治」の確立であり、慣習の支配で拘束された自由と、停滞した独創性を解放しようとするのが、近代の歴史的意味である、と。新聞の書評で見つけた、三谷太一郎『日本の近代とは何であったかー問題視的考察』は、ちょうど今の私の問題意識と一致して、読む気を誘ってくれた■著者の三谷さんは全く存じあげない方だが、本文もさることながら、あとがきを読んで大いに好感を持つことができた。人生そのものを学問に費やし、その間に「達成した事業は余りにも貧しく、誇るに足るようなものではありません」と謙虚に述べたうえで、青春期と老年期の学問の一体性に言及。若き日に成し遂げた仕事の実績、領域は年老いても越えられないものだ、と。結局は、〝処女作に回帰する〝のだということを言おうとされている。もっと率直な言い方をさせてもらうと、偉そうに各論を展開するより、初心に立ち返って、総論にきちっと立ち向かうことが大事だよと、いうことだろう。で、三谷さんは、英国のジャーナリストであるウォルター・バジョットの考察に向き合い、極めて真面目にヨーロッパ近代から日本のそれがどんなものであったかを説き起こしてくれている。バジョットはマルクスと同時代人だ、と始めて知った。片やヨーロッパ近代における経済学、もう一方は政治学を模索した新しいモデルを打ち立てたというわけだ。そうくればますます読まねば、という気になってしまった■明治期における政党政治から始まって、貿易、植民地化、天皇制と4つの切り口で日本近代の成り立ちに迫った著者の視点は鋭い。一つは、「議論による統治」の日本的形態は、明治維新期から今に至るそれへの批判や非難が実質を作り上げ、不安定の安定を作ってきたという。今の安倍政治が危なっかしいものの何とか持ってるように見えるのもその伝統ゆえかもしれない。二つは、日本の資本主義の全ての機能が集中しているといってよい原発の事故について、日本の近代化路線そのものを挫折させた、と。これもまた大いに共感する。三つは、現在のヨーロッパにおける難民問題は、植民地帝国の負の遺産であり、日本にも形を変えて潜在的に存在する、と。在日コリアンから沖縄の差別に至る問題が想起させられる。四つは、ヨーロッパにおける神の存在と日本の天皇との類似性である。明治期の設計者たちは天皇を単に立憲君主に止めず、皇祖皇宗と一体化した道徳の立法者として擁立したのは、神の代替物を探した結果だというわけである■三谷さんは、日本の一国近代化路線の失敗のシンボルとして、東日本大震災による原発事故を位置づける。富国強兵から強兵なき富国路線の挫折だというわけである。そして今後日本にとって必要なことは、「かつて日本近代化を支えた社会的基盤を、様々の具体的な国際的課題の解決を目指す国際的共同体に置き、その組織化を通じて、グローバルな規模で近代化路線を再構築することではないか」という。そして、そのためには「アジアに対する対外平和の拡大と国家を超えた社会のための教育が不可欠」だという。で、そうした自身の目指す多国間秩序構築のモデルとして、1921年暮れから22年初めに開かれたワシントン会議をあげ、そこから導かれた諸条約や諸決議を伴う国際政治体制としてのワシントン体制に学ぼうというのである。この問題提起をどう捉えるか。着眼点は悪くないが、構成要員としての各国の、政治的佇まいの様変わりぶりが大いに気になるところだ。ただ、先達の遺言として銘記しておきたいとは思う。(2018-7-15)