(277)永遠の母親と子供像を見るー夏目漱石『坊ちゃん』を読む

日本人の読書好きなら、いや別に好きでなくとも、誰でも知ってるのが夏目漱石の『坊ちゃん』。全集第2巻に収められている、この名作を再読した。改めてその小説展開の面白さに感銘を受けた。「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」ー冒頭から惹きつける。親譲りの慎重さで子供の時から得ばかりしてきた私としては、いや別にそんな人間でなくとも、誰でもその「無鉄砲ぶり」や「損」の中身に引き寄せられる。四国松山の中学校での生徒たちとのバッタ騒ぎや、教師たちの悪事との抗争。最後に加える鉄拳制裁。胸のすくその勧善懲悪ぶりにはやはり快感を覚える。そんな坊ちゃんを例えようもない温かさで見守る下女の清(きよ)。清に母親像を重ね見てきた私だが、今回の再読でどうやらそう単純ではないようだと知った■この小説を漱石は10日あまりで一気に書いたという。その背景には、薩長藩閥政府や東京帝国大学への批判や鬱憤やらが凝縮しているとの見方がある。加えて学校や家族への制度としての在り方への不満も。漱石の小説、それも最も早い段階の『猫』や『坊ちゃん』を老いた身ー心も身体も未だ若いと自認しているがーで読むことには、さすがの私でも抵抗があった。しかし、小森陽一によると、「漱石のなにげない一言に宿っているもののスイッチを押すと途轍もない世界が開けてくる」だけに、「老後に勝手に楽しむ小説のベスト1ですね(笑)」ということになる。そう言われて初めて落ち着き、俄然前向きになるというのも大人気ない限りだが、そこは凡人らしさゆえと自己満足しよう■さて、『漱石激読』による手ほどきとは別に、この小説では養老孟司 の別冊NHK100分de名著『読書の学校 特別授業』も併せて読んだ。これは一転、子供向けの読み物で、大人向けの『激読』とは対照的、好一対である。「大人になる」ということはどういうことか、とのタイトルの一章では、「大人になって日本の世間とどう折り合うか、すでに折り合って生きている人をどう見たらいいのか」と語りかける。この折り合い加減こそ人生の全てと言っていいかも知れない。時に徹底して人と折り合わず、一転、滅茶苦茶に折り合ってきた私なんか、いつまで経っても大人になりきれていないと自認している。脳科学者の書いたこの本、随所に深いヒントが隠されていて興味深い。「学ぶことで私たちは大きく変わっていきます。知るということは、自分の本質が変わることです。本当の意味で学問をすると、目からウロコが落ちる」と。いつまでも変わりきれぬ自分は、中途半端な学びだからか。それとも逆に学びすぎてるのか。結局は、自分の頭で考えるっていうことをしていないからではないか■最後に清をどう見るか。小森と石原千秋は、「正常な家制度でも家族のあり方でも解けない謎が『坊ちゃん』にはあるとして、清が坊ちゃんの先祖代々の墓で待ってるとの表現を挙げている。養老は「清が死ぬことで坊ちゃんは一人になる」「死とは突然やってくる。人は死んでも、心の中に生き続ける。人生はこういうものだと思います」と締めくくる。私は清の普通ではない発言ー親族関係ではないのに同じ墓に入ることーは、深い愛ゆえのレトリックだと思う。謎というほどのことではない。ことほど左様に坊ちゃんは清と一体化していた、と。かつてこの小説を読んだ頃の私は神戸の母と離れて東京の下宿に一人住んでいた。初めて帰郷した時に「帰ってきた〜」と泣き笑いながら抱きついてきたあの時の母の感触を忘れない。休んでいた私の枕元に「寒いだろう、風邪ひくといけないよ」って、衝立代わりに何かを立てかけてくれたことも。清=永遠の母親のイメージは、単純ではあっても、70歳を過ぎた今になっても変わらないのである。(2018-10-13=文中敬称略)

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