明治維新150年の本年、時代を捉える様々な枠組みの提示が見られる。先日私が講演を頼まれた関西学院大学梅田キャンパスでの公開講座では、私は今を生きるうえで押さえておくべき枠組みとして、三つの代表的なものを示した。一つは、日本社会40年周期説、二つは、三度(みたび)の尊王攘夷説、そして三つは、菊から星条旗への国体変換説である。前二者は、これまで幾たびか取り上げて来た。ここでは三つ目のものを紹介したい。これは白井聡『国体論』における画期的な発想による。白井聡氏はまだ41歳の少壮の政治学者。先に『永続敗戦論』で、石橋湛山賞、角川財団学芸賞などを受賞した。一言で言えば、先の大戦で敗れた日本は正面から負けを認めないゆえに更なる敗戦が続いているとする「永続敗戦レジーム』を説くものであった。その論考から一年半、今度はもっと衝撃的なフレームワークの提示である。読んでみて深く感銘した。戦前の菊の御紋による、つまり天皇制のもとでの国体から、一転、戦後は星条旗のもとへと、すなわち米国支配へと国体の主軸が変わったとするものである■といえば、ことは簡単に見えるが、実はそのことを著者は平成天皇の「お言葉」(2016-8-8)から見抜く。そこには「戦後日本の対米従属の問題は、天皇制の問題として、《国体》の概念を用いて分析しなければ解けない」との問題意識が横たわる。お言葉を聞いた瞬間が、この本の出発点となった。安倍首相の思想的同志(日本会議系)と、天皇との「齟齬的関係」は一般的にはあまり知られていない。しかし、深いところでは当然のごとく語られている。この書物ではその背景を丁寧に優しくそして分かりやすく説く。天皇のご公務の在り方を巡っての衝突を見事に解明して見せた、白井氏の直感は鋭い■天皇をめぐる論考は深く切実であり、更にそこから先の分析は、唸らせるばかり。1945年の敗戦を境に、地に堕ちた天皇の権威は、7年間の占領期を経て、いつの間にか米国に取って代わられてしまったとの経緯を克明に追う。かつては鬼畜米英といい、不倶戴天の敵としてきた米国に全てを委ねきって、恬として恥じない日本の現状。およそかつての天皇中心の国家の在りようが、そっくり米国の支配へと移り変わったと言っても過言でないのかもしれない。国の防衛を米国に任せ、経済のみに専念するー「軽武装国家論」といえば聞こえは悪くないが、そこには首根っこを米国に抑え込まれたまま、主権国家とは言い難い半独立国の姿が仄見える。もうそろそろその実態に気付く必要があることをこの本は厳しく問うている■先日の姫路での公明党主催の政治集会で、外務省出身の自民党のY代議士の来賓挨拶を聞く機会があった。吉田茂首相以来の軽武装国家路線の正当性を誇らしげに語っていた。外務省の大先輩が、日米関係の基礎を作った云々と。確かに吉田のとった路線の効用は一度は滅亡の危機に瀕した日本を浮上させた。しかし、それから70年余。日米同盟という美名のもとでの対米従属姿勢のもたらす弊害は目を覆うばかり。戦後民主主義の破綻を私たちは旧日本社会党などいわゆる左翼のせいにしてきた。しかし、もう一方のつがい的存在だった保守の〝無為の責任〟も問われねばならない時が来たように思われる■著者は終章で、「日本人の中で、風を吹かせる役のものは政治家である。しかし、現在の日本にはそういう役割を果たせる政治家は不在であるし、日本の政治屋連には、風を吹かすのが自分たちの義務だという意識は全くない」との経済学者・森嶋通夫が1999年に『なぜ日本は没落するか』で説いた部分を引用している。そして、「日本の右傾化や歴史修正主義の勢力拡大について懸念が表明され」、「(予測は)十分に悲観的であったが、それよりもさらに悲惨な現実がその後の約二◯年の間に急速に展開されてきた」と森嶋の予測の正しさを強調する。この本の末尾で、白井氏は話を再び天皇のお言葉に戻し、そこに「闘う人間の烈しさ」を確信したとして、その闘いの対象を明確に提示することにした本書執筆の由来を明かす。合わせて歴史の転換を画するものは「民衆の力」だと結論付けていることは胸にズシリとこたえる。(2018-11-24)