(305)生と創作への漲る意欲ー柳谷郁子『美しいひと』を読む

選挙期間中は流石の私も当然ながら本は読めず、4月に入って読後録も書けなかった。「忙中本なし」を実感する。しかし、習い性となった身としては、試験前に限って無性に本を読みたくなる学生のように、束の間読みさしの小説や随筆などを開いてしまう。著者の柳谷郁子さんから送られてきた『美しいひと』なる掌篇集を一日一篇、つまり10頁ほどづつ読み続け、ようやく終わった。この人、姫路が誇る女流作家である。私はひょんなことから評論家の森田実さんと彼女を結びつける役割を果たし、双方から喜ばれていることは既に触れた通りだ▼表題作のように、6頁のものから、一番長い50頁足らずのものに至るまで、全部で17の掌篇からなっている。繊細かつ大胆な内面を、美しいお顔立ちと穏やかな表情で覆い隠された著者の心のあやがジワリ伝わって、爽やかな思いに誘われる。帯には「人生の一瞬にひそむ妖しい機微」「人の一瞬を彩る華のごとき魔性」ーとあるように、恐らくは編集者は17の小さな物語に宿る、人の一瞬のこころの動きの共通点に着目したと思われる。続けて「人はこうして生きています。一粒の涙も微笑もみんなあなたです」と、柳谷さんが読者に語りかけたい思いに共感を訴えている▼私は、この本から、迫り来る「老いと死」に対して、いかに創作をし続けるかという著者のこころの叫びを感じた。「何処も彼処もが死者たちの影のそよそよと重なり合い擦れ合う気配で満ちているのだ(中略)今生きている者たちもこれから生まれて生きていく人々も、命という命はみな、死者の影たちの仲間なのだ」(「お札」)ーここには若い時には殆ど考えなかった「生と死」が奏でる、晩年における二重奏が聞こえてくる。私も深夜時々目が覚めて、この「気配」に引き摺り込まれてしばし眠れないことがこのところ少なくない▼一方、そうした「気配」に抗して、著者は人の内面に潜む強い欲求をこう表現する。「わたしの記憶、わたしの思い、わたしの望み、わたしの夢、わたしの論理、わたしの感受したもの、わたしの内の形の無いすべてをこの世にとどめておきたい、わたしはけしからぬ欲望の持ち主だ」(「放熱)」)ーこのくだり、「終活」にさしかかった全ての人に共通する思いではないか。わたし的には、17篇中でこの掌篇が一番の好みだ。ショパンとベートーヴェンの音の相違から始まって、主人公の身近に残った三冊の本と作家の話。それと絡めて老人ホームに入居している3人の老女とひとりの老人たちとの交流。主人公はその展開の中で「そうだ、わたしは壮大な物語を書きたかったのだ」「ああ、わたしは小説を書きたかったのだった」と叫ぶ。最後に「放熱を。放熱を」と闇に呟くくだりは強い共感を覚える。ほんのちょっとした紙数の中に、終着駅に向かうような人の姿が描かれていて強烈なインパクトだ。尤も「放熱」という言葉にはどこかで読んだもの(志賀直哉『暗夜行路』の「豊年だ、豊年だ」)と類似の印象を受け、多少の違和感は否めないが。 (2019-4-11)

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