『騎士団長殺し』という村上春樹の小説のタイトルがずっと気になっていた。文庫本発売を待って、このほど読み終えた。例のごとく、通常の小説を読む感覚では到底わけがわからない〝村上ワールド〟の披瀝なのだが、読み出すと結局吊り込まれてしまう。そして、読み終えての後味は悪いようで良いような、とても複雑だ。いつものことだ。「古い祠から開いた世界の輪」 が広がって、鈴の音がどこかから不気味に聞こえ、絵の中から身長60センチほどの騎士団長が出てくる。地下の迷路や三途の川めいた〝あちら側〟のようなところで「顔のない男」に出くわし、また〝こちら側〟に戻ってくる。村上春樹って小説家を巡っては、過去に大江健三郎や柄谷行人、蓮實重彦といった錚々たる小説家や批評家がこぞって批判の矢を浴びせたものである。だが一方でこのほど亡くなった評論家の加藤典洋さんのように最初から評価する人も少なくない。勿論、海外におけるファンは圧倒的に多い。こうした狭間にあって、私自身の評価はやじろべいのように右に左に揺れ動く▼随所に顔を出す音楽の幅広い知識。絵画についての造詣の深さ。凡庸なる身には計り知れない芸術的嗜好。そして登場人物の生活習慣のありようの特異さの描き方。着ているものから、乗る車や部屋の佇まいに至るまでの書きぶりは印象深く心に残る。そういうところに出くわすと、思わずその該当箇所に付箋を貼ってしまう。尤も、人妻と主人公とのセックス場面の精密極まる描写には年甲斐もなくどぎまぎする。いや正直それを通り越して辟易する。小説だからこういう濡れ場を出さないと読み手に飽きられることを、この人も恐れるからなのだろうか。いつも性懲りも無くせっせと描いてくれる。この辺り常に変わらぬ小説家的商法に見えてしまう▼それにしてもこの著者の比喩の使い方には感心する。多彩に展開される比喩の乱舞は見事だという他ない。暇があったら、村上春樹・比喩類例集とでも云うようなものを作ってみたい気がする。新聞記者として長年文章修行をしてきたものは簡潔さを旨とするため、どうしても美的要素は後回しにしてしまいがち。ゆえに、比喩の使い方がなかなか上手くならない。村上春樹の文章は小説家の書くものとして見事なお手本である。比喩と似て非なるものとしての暗喩や寓意の華麗なる散りばめ方については、もはや分別不可能なものにわたしには見える▼先日、村上春樹氏の作家生活40年を記念して、共同通信社が『騎士団長殺し』を巡ってのご本人へのインタビューを試みた。そこでは「意識の底にあるものを探求していくことが自然にテーマになってしまいます」と語り、「意識を掘っていくと、その底にあるのは一種の魑魅魍魎です。そういう暗闇の中から何を引っ張り出してくるのかというのは、最終的には勘に頼るしかない」と興味津々たる手法を披瀝している。つまりは村上春樹をどう読むかは、心理学の仕事であり、宗教や神話の世界によるアプローチが最も有効かもしれない。と、ここまで書いて、ひょんなことからNHKカルチャー講座「文学の世界」における心理学者の河合俊雄(京都大心の未来センター長)さんの、この本の読み方を音声で聴いた。なるほどと思わせられる。さてさて、村上春樹は「むずかしい」(加藤典洋)のだが、それでいて「くせになる」(清水良典)。(2019-6-1)