日経新聞社が平成の時代を、政治、経済、経営の三つの観点から総括、分析した本だというので、まず、『平成の政治』から読んだ。御厨貴(東大名誉教授)と芹川洋一(日経論説フェロー)の二人がホスト役になって、ジェラルド・カーチス(コロンビア大名誉教授)、大田弘子(政策研究大学院大教授)、蒲島郁夫(熊本県知事)の三人とそれぞれ語り合っている。30年を「政治改革」「官邸主導」「地方」の視点で捉えた三部形式。読み応え十分で、概ね満足できた。ただ一点だけ不満が残る。30年のうち、後半20年を「自公連立」の相方として演じてきた公明党についての記述があまりにも少なく、弱いことだ。分かってそうしてるのか。それとも本当のところが分からないからなのか。何もよく書けと言いたいのではない。もっときちっと料理して欲しいと言いたい。これでは、「平成の政治」を読み解いたと云われても、よく噛まないまま固まりを飲み込んだ時のように、消化不良が気にかかる▼それでもゼロではない。5頁ほどだけ出てくる。三者三様に鋭く公明党の抱えている課題について論及しており、興味深い。御厨は、国交相を公明党の指定席にしたことで、ある種の透明感が限定的にせよ生じたことと、政策、特に安全保障分野で、本気で熱心に議論をすることを公明党のプラス面として評価している。一方、安保法制に賛成して以来、議員と支持者の間が遠くなったことと、社会性を巡って議員と創価学会中枢との関係に矛盾が生じていることを課題としてあげている。また、芹川は、小選挙区選出議員はリアリスティックだが、比例区選出議員は理想主義的な傾向が強い、と指摘する。加えて、支持者の間における無党派層の増加や親の世代と子供の世代のギャップなども注目されるとしている。その上で、カーティスは、「公明党なくして自民党もない」として、重要な公明党の役割を強調し、芹川も両者の関係は「渾然一体化」しており、御厨に至っては「もう離れられない」とまで云う。しかし、論及はそこで停止してしまっているのだ▼私が問題にしたいのは、そういう公明党の存在が平成の政治をどう動かしてきたのか。何を変え、何を変えずにきたのか。そのような分析が皆無だということについてである。芹川は、別の著作で、今の政党の分布図が55年体制以前と比べほぼ同じになった、元に戻ったと述べており、この本でも「ぐるっと一回りした」と同じ認識を繰り返し、御厨も同調している。 すなわち、かつての社会党が立憲民主党に、民社党が国民民主党になっただけで、名称は変われども一回転したに過ぎないと云うのである。ここにはかつては野党だったが、今は与党の公明党の存在が完全に消えている。恐らく、両者は渾然一体だから、公明党を論じても仕方ないと云うのだろう。だが、果たしてそうだろうか。そう見るのは、評論家の力量としてはいささか心もとないと私には思われる。この20年に及ぶ自公連立政権にあって、公明党がどのような力を発揮して政権の一翼を担ってきたのかを追わない政治分析って、一体意味があるのか、と云わざるを得ないのだ▼ただ、そう憤ってみた上で、公明党の側の責任も問われねばならないと思う。ここまで無視されると、党員から議員を経て、また党員に戻った50年に及ぶ公明党のウオッチャーとして恥ずかしく感じる。私は自分を棚上げして、ひたすら今の公明党にもっと自己主張を求めたい。何故の連立なのか。どうして今の安倍政権を支えることが政治の安定に繋がるのか。貧富の格差がますます広がる中で、社会的弱者の側にどう立っているのか。政治の改革はどう進めているのか。選挙で自民党を支え、自民党に支えられて、「公明党の自民党化」が進んでいるとメディアに報じられている。それならば「自民党の公明党化」的側面を、もっとアピールしていいはず。いや、公明新聞や理論誌、グラフ誌に特集が組まれているのを見ていないのかとの反論があろう。しかし、深掘りはなされていない。響いて聴こえてこない。公明党の政治路線を今こそ党の幹部は公明新聞紙上でも論じるべきではないか。それは決して政治の安定を脅かすことにはならない、と私は固く信じているのだが。