(352)解釈でなく体験を、との勧めーサミュエル・ベケット『モロイ』(安堂信也訳)を読む

この人と会わなければ間違いなく私はこの本を読まなかったに違いない。勿論こんな読後録も書かなかったはずだ。この人、とは諸井学さん(先に紹介した『神南備山のほととぎす』の著者)のことであり、この本とはサミュエル・ベケットの『モロイ』(「アンチ・ロマン」に区分される小説だそうな)のことである。諸井さんと知り合ってほぼ2年。次第しだいに感化、影響を受けてきているのだろう。ついに『モロイ』を読む羽目になってしまった。読んでいて幾度も投げ出したくなった。およそオモロイとは言えない代物だからである。それでも最後まで読み終えることが出来たのは、ひとえに諸井さんが自分のペンネームは「モロイから学ぼうとした」というからである。邦訳は4種あり、そのいずれをも含め十数回にわたって読んだと言う。そこまで入れ込む理由を知りたい、と私が思ったのは人情というものだろう▲ベケットの作品は、戯曲『ゴドーを待ちながら』を読んだことがあり、既に読後録にも書いている。だからおぼろげながらもどういうタッチの読み物であるかは想像できた。聞きしに勝る、わけのわからん筋立てというか話運びである。それでいて妙に引き込まれる独特のリズムはないわけではない。一回読んだだけで読後録など書くのは無謀というものだろうが、再読したり、橋本五郎さんのように「二回半読む」勇気も暇も、今のわたしにはない。コロナ禍の有り余る時間の中でさえ、わたしに残された時間はそう多くないとの切迫感があり、早く離れたい(『モロイ』からも『諸井』からも)との思いに負けてしまった。ということで、中途半端な結論のもとに書き出したこと、ご容赦願いたい▲実は少し前に、諸井さんに『モロイ』って、どんな小説なの?って訊いたことがある。彼はひとたびは曖昧な言い方でお茶を濁したかに思えたが、のちに手紙で答えを書いてきてくれた。結論部分のみを披露すると、「『モロイ』を読むことは、『モロイ』を解釈することではなく、『モロイ』を体験することである」ということになる。ボールは投げられた。「解釈」するのでなく、「体験」することであるというのは、また判じ物である。解釈には理性が働き、体験には感性がものをいう。要するに、理屈で分かろうとするのでなく、感じるがまま受けとれということなのだろう。これがまた難しい。ボールの投げ返しに苦労することになった。尊敬する友人であるベケット研究の第一人者・岡室美奈子さん(早大教授)に訊いてもみた。彼女は、「解釈でなく、体験だ」との諸井説を「言い得て妙」と同感したうえで、「『私』という語り手に心を添わせる読み方」がいいとし、「理由が分からぬまま感動する体験が醍醐味です」と答えてきてくれた▲私は何らかの閃きが我が体内に生じない限り、この本の読後録は書けないと思った。そんな時に、たまたまモーパッサンの『エセー』における興味深い一節にでくわした。「自分が対象と関わる瞬間に、ありのままの姿をとらえるしかない。つまり、存在を描くのでなく、推移を描くのだ」とのくだりだ。これを解説したあるフランス文学者は、「画期的居直りだ」と述べていたが、私にはこの説明を聞いた瞬間、ベケットが『モロイ』で描いているのは「存在」でなく、「推移」ではないかと、閃いたのである。具体的な描き方部分を上げることはあえてここではしない▲最後に、気に懸かった箇所が二つあることを告白する。一つは、第一部におけるセックスに関わる表現部分。過去に読んだこの種のもののいずれよりも印象深い。ここにだけ強烈なリアルを感じた。もう一つは第二部における大便にまつわる表現のところだ。息子のしたうんこの具合を親父が覗き込み、その有様を仔細に描く。笑った。なんのことはない。人間の原初的行為が、昔馴染みの友人が突然訪ねてきた時のように私の感性をくすぐった。裏返せばそれ以外は殆ど意味不明。それが私の正直な『モロイ』体験なのである。諸井さんは、小説家として多くの創作のヒントを得たに違いない。岡室さんは「どうか(ベケットを)嫌いにならず、お付き合いいただければ」と結んでおられた。さてさて、どういうものか。(2020-5-31)

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