渋沢栄一(上)を取り上げてから随分時間が経った。(下)はもうよそうかと思ったものの、思い直して挑戦することにした。NHK大河ドラマでの放映も3分の2ほど進み、佳境に入ってきている。鹿島さんの本は、算盤編、論語編と、上下に分かれているものの、さしたる区別はなく、人生の前半と後半に分けてあるだけ。波乱万丈だった若き日を描いたのが(上)で、中年以降の事業拡大に向けての壮絶なまでの渋沢の動きを追ったのが(下)である。渋沢の人生を描いたこの上下2冊を通じ、旧来的な歴史上の興味で、最も関心を呼ぶのは、徳川慶喜の江戸末期の動きである。しかも渋沢は、『徳川慶喜公伝』の編纂に携わった。鹿島さんは、渋沢が晩年心血注いだ最大の事業だとまでいう◆大政奉還から鳥羽伏見の戦い、そして維新に至る慶喜の身の振り方が、結局は卑怯者で臆病な人物であったと見てしまいがちなのが一般的である。好意的な立場からのものであっても、結局はよくわからないというのが、せいぜいの落としどころのようだ。渋沢は、その不可解な人物に仕えた。なぜ敵前逃亡的な行動をとったのかとの、率直な疑問まで本人にぶつけたという。一切を語らず沈黙を守っていた慶喜が重い口を開いたのは、明治も20年を過ぎてからのことである。鹿島さんは、「国家百年の計を考えて自ら身を引いた慶喜の複雑な心理を理解するに及んで、渋沢の心に、主君の偉大さに対する強い尊敬の念とともに、強い義憤が湧いてきた」(第63回)と書き、伝記執筆で主君の無念をはらそうと、決意する◆しかし、それでもさらに約20年後の明治40年になって、慶喜自身の証言を聞き出すための「昔夢会」なる、史談の会まで、結論は待たねばならなかった。では、そこで主君の無念を明快に晴らすだけの事実が明らかにできたかというと、実はそうではない。むしろ、一層霧の中に包まれることになってしまったのである。それは、我が身を飾ろうとしない慶喜自身の性癖と、歴史家に徹して評価に公平を期そうとする渋沢の姿勢が重なって災いしたと思われる。その背景には明治35年に慶喜に公爵位が授けられ、完全な名誉回復が実現したこともある。当初の義憤を伝記で晴らす、つまり「弁明」する必要がなくなったと言えなくもない事態が生まれたのだ。結局、「慶喜の事実は藪の中」にあることの責めの一端は、渋沢栄一にもあると言わざるをえない◆一方、論語篇のよってきたる所以を探る意味で、第62回の「『論語』と『算盤』」も精読した。著者は、「渋沢は、自己本位の利潤追求はかえって、自己の利益を妨げるという資本主義のパラドックスを十分に理解した上で、『論語』に基礎を置く『算盤』を主張している」のであり、「近代日本における野放しの資本主義の跋扈は、江戸時代から引きずってきた『論語』オンリーの考え方の反動である」という。渋沢が「論語」と「算盤」の融合を目指したのは、「『論語』を我が物にしながら、『算盤』の論理の内側に止まった『父』を止揚しようとする『息子』の原体験から生まれたものに他ならない」と結論づける。明治維新から、先の「大戦敗北」を真ん中において、2つの77年を経たいま、改めて「論語」の重要性に気づかざるをえない。第一の77年の興亡は、澁沢によって「論語と算盤」の融合がそれなりに試みられたが、第二の77年にあっては、「戦後民主主義」の跋扈によって、「論語」は忘れ去られた感が強い。第三の興亡史がこれから始まろうとする今、改めて「渋沢栄一」が脚光を浴びることは、なかなか意義深いといえよう。(2021-11-17 一部修正)