◆非常事件の解明に向けた推理小説のおもむき
川端康成に一連の「初恋小説群」があることはついぞ知らなかった。そんな私が『川端康成の運命のひと 伊藤初代』なる本を手にした。かねて尊敬する文学博士の森本穫さん(川端康成学会特任理事、元賢明女子学院短期大学教授)から頂いたのである。石川九楊の装幀による、ただならざる佇まい(表紙は康成と初代のツーショット)に魅かれて頁を繰っていった。
序章「九十三年前の手紙」の書き出し「忘れられない出来事だった」から、七年前のNHK の「ニュースウオッチ9」へ。いきなり引き摺り込まれた。そこからは文字通り、巻を措く能わず。推理小説を読むように。実は森本さんは「松本清張」にも造詣深く『松本清張──歴史小説のたのしみ』なる著作があり、以前に読書録で取り上げた。そこでは「推理」だけでなく「歴史」のたのしみを追ったところに、より深い「清張理解」が感じ取れたものだ。
康成は、一高生のとき、東京本郷のカフェ・エランで女給をしていた初代に出会う。寮が同室だった仲間3人と一緒に。21歳と14歳だった。初代は15歳の晩秋に岐阜のお寺に養女として預けられた。愛が芽生えて直ぐに、離れ離れになってしまう。手紙のやりとりをするなかで当然ながら愛は育ち、1年後には結婚の約束までするに至る。ところがほどなくして突然初代の方から断りの手紙が届いた。その手紙には「(私には)非常が有る」、「非常を話すくらいなら死(ん)だほうがどんなに幸福でせう」との衝撃的な言葉があった。「非常」の意味を探るべく謎解きのように舞台は進む。
川端文学研究者の間では、初代の心変わりは何故かをめぐって、諸論入り混じるも、 長く曖昧なまま放置されてきたという。この「非常事件」の真相を明らかにすることに、森本さんは執念を燃やしてきたのだが、ついにこの本で解明に至る。驚くべき結末には暗澹たる思いを持つ一方、さもありなんとの妙な合点もいだく。推理小説の赴き大なるこの本ゆえ、あえて「タネ明かし」はしない。ぜひ、興味を持たれる向きは、読まれることをお勧めしたい。
康成といえば『雪国』と並んで『伊豆の踊り子』が有名だ。20歳の10月末から11月7日まで伊豆への一人旅をし、踊り子と親しくなった、と巻末の康成と初代の詳細な年譜にある。初代との出会いのほんの少し前。かの「踊り子」のイメージとダブったのかどうか。多くの日本人の初恋の原風景。それぞれの意識の奥底に共有されているかもしれない。ここで改めて文学研究者なる種族の〝非常なる習性〟に関心を持たざるを得ない。
◆非凡な作家と文学研究者の〝美意識への追求〟
森本さんはあとがきで、冒頭に述べたメデイアに公開された未投函書簡から、「大正10年(1921年)秋の岐阜を舞台にした初恋の頂点ともいうべき日々の息づかいが聴こえてくる」と記す。これらを一読して謎の解明を直感した同氏は、ことの真相を明らかにすると共に、「川端康成の青春、生涯に決定的な影響を及ぼした女性・伊藤初代の生涯と人となりを描く」ことに情熱を傾け続けた。
読み進めつつ幾たびか疑問が浮かんだ。美にまつわる類稀な表現を残した作家が愛した女性。だがその人は康成との破談ののち、ひとたび結婚し子どもをひとり授かり、その夫が病死したあと再婚し男女7人もの子をもうけている。運命のひとと呼ぶのはいささか違うのではないか。非凡な作家と文学研究者の〝美意識への追求〟に、平凡な男による謎解きが読後に始まった。
前者への解は、ドナルド・キーンの『日本文学史』近代・現代編第4巻の中に見出せる。キーンは、「生涯を通じて処女に、神聖な女性に、魅せられていた」と、康成の求めた「美の真髄」について紹介している。その中に、康成は「最初の恋愛体験、すなわち、彼を裏切った女性に求めて」おり、「現実生活の失恋の痛手が小説中の女性に影を落とし」たとの、ある評者の見立てがあった。三島由紀夫始め数多ある評の中で最も馴染みやすい。
一方後者への解は、『川端康成初恋小説集』の巻末にある川端香男里(ロシア文学者)の解説に発見した。そこでは、川端文学における2系列の分裂(成功した作品群と苦渋に満ちた作品群の相克)の背景を述べたうえで、「事実性の尊重という骨格は決して消え去ることなく、陰に陽に作品を支える構造になっている」と結論づけている。康成の心を捉えた初代という存在を追い続けた森本さんの思いには、分裂したかに見える川端文学の総体を掴みたいとの「非凡」さがあったはず。平凡な読者は感嘆せざるを得ない。
【他生のご縁 おやさしいお人柄に感銘】
淳心学院高(一期生)から早大に学ばれた森本穫さんは、私より三つ歳上。姫路の地には共通の友人も少なくありません。お聞きすると、私の義母と森本さんのご夫人がかつて俳句を一緒に学んでいたとか。後々になって聞く始末。人生後半に漸く知己を得たのが悔やまれますが、その膨大な知的所産を遅ればせながら吸収中です。
改めて、おやさしいお人柄に感銘し、弟子の作家・諸井学さんを交えて、時々の出会いを楽しんでいます。