【29】印象深い悲観的結論ーロジェ・カイヨワ『戦争論』を読む/4-10

 ロジェ・カイヨワの『戦争論』を手にしたのは、私が議員になってしばらくの頃。もう随分前のことになる。それを改めて読む(正確には、見る)気になったのは、NHK『100分de名著』の放映がきっかけだ。3年前のものがこの4日に再放映された。もちろん、「ウクライナ」を機に、「戦争」を考えようという人のために、企画されたに違いない。2019年の時点では、もちろん今回のような事態は想像すらされていない。改めて「戦争」を考えるうえで、種々刺激になった。で、戦争の悲劇を起こさぬためにはどうすればいいか。カイヨワの結論は、「人間の教育から始めることが必要である」としたうえで、「とはいうものの、このような遅々とした歩みにより、あの急速に進んでゆく絶対戦争を追い越さねばならぬのかと思うと、わたしは恐怖から抜け出すことができない」という極めて悲観的なものであった◆「プーチンの戦争」と呼ばれる今回の「戦争」を巡って考えることを三つあげたい。一つは、「対テロ戦争」はあっても、もうないだろうと思われた〝国家間戦争〟の再来であることだ。20世紀末にはNATO諸国や、米国を中心とする有志国が懲罰の意を込めて、他国を攻撃することはあった。だが、国連の常任理事国が白昼堂々と、宣戦布告もなしに一国だけの決断で隣国を侵略するということは記憶にない。この当事者の2カ国はルーツを辿れば、かつてはソ連邦を形成していた兄弟国だけに、〝変形した内戦〟と言えるかもしれない。日本で言えば遠い昔の鹿児島藩の琉球攻撃のようなものを連想する。時代の逆行も甚だしい◆二つ目は対決する政治体制の枠組みである。現在刻々と伝えられる情報によれば、国連(国際連合)の場でロシアを非難する声は、西側欧米諸国およびその傘下の国々においては強まる一方だ。かつて、日本が1935年(昭和10年)に国際連盟を脱退し、松岡洋右外相が議場を退出した時のことが頭をよぎる。勿論時代状況は大きく違うが、その後第二次世界大戦へと繋がっていったため、凶暴性を持つ国家を追い込むことついては不吉な予感が漂う。その後ドイツ、イタリアなど全体主義国家の連携が形成されていったが、いままた、中国、北朝鮮など専制主義国家がロシアに共鳴する方向を鮮明にしようとしている。この30年ほどポスト冷戦の時代と呼ばれる中で、ロシアも中国も共産主義から社会主義、そして擬似資本主義国家の様相を強めてきていたが、それと反比例するかのように、非民主主義的傾向を強めてきているのだ◆三つ目は戦争突入の口実について。プーチンのロシアが今回の軍事行動に踏み切った理由は、NATOによる攻勢でかつての宗主国の地位が脅かされていることへの反発であり、東部の親ロシア地域でジェノサイドが発生しているとのフェイク情報が口実とされていることだ。これは、21世紀初頭の米英を中心とする有志国のイラク戦争の際のいいわけに似ている。あの時はイラクの大量破壊兵器保持と北部クルド人居住地域での大量虐殺が大義名分に使われた。内実は似て非なるものとはいえ、無辜の民が犠牲になったことは同じである。当時と今と、戦争を起こした側の米欧とロシアが使った言いぶりの類似性に大差はないのに、国際世論の差異は大きい。かつてイラク戦争の際の日本で、今回ほど被害民衆を慮る動きはなかった。『戦争論』の結論から極論すれば「プーチンへの教育」がなされないと、〝恐怖の事態〟は続く。何ともやりきれない思いだ。(2022-4-10)

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