若き日に志賀直哉という作家に取り組んだ時期がある。文章研究の一環として、『城崎にて』とか『小僧の神様』などの短編を読んだものだ。後に、長編『暗夜行路』にも挑戦した。人生最終盤になって再び『城崎にて』を取り出したのは他でもない。私ども夫婦が結婚50年の佳節を迎え、どこかに行こうかとなって、兵庫の名湯・城崎温泉を目指し、ついでにこの著名な作品の再読となった次第である。温泉・酒好きの妻の思いとは別に、私の密かな目的はこの作家の跡追いにもあった★この短編は、著者が交通事故(山手線の電車に跳ね飛ばされた)に遭って傷ついた身体を癒すために、この地に逗留した際の実話に基づく。3週間にも及ぶ長逗留の無聊の気まぐれに目にした、蜂、鼠、いもり、蜥蜴など小さな生き物の生と死の描写に過ぎないのだが、名作の地位を不動にしたのはなぜだろう。それはひとえに、〈死ぬはずのところを助かり、何かが自分を殺さなかった、自分にはしなければならぬ仕事があるのだ〉との思いが支配していた時に、生き物の儚さを見たからに他ならない★生と死は両極でなく、「それほどに差がないような気がした」との表現が終わり近くに出てくるが、それこそ、仏教でいう「生死一如」を悟ったということと思われる。私自身も、幼き日に祖母と一緒に伯母の家に行った際に、祖母が急死したことが強い衝撃になった。また、中学校の理科の時間に、蛙を解剖すべく机の端に蛙を叩きつけて殺したことが妙に後味の悪い印象として胸に残り、いまもある。また、つい先年、地域のお堂の脇に生えていた大きな古木を切り倒した際に、その生木の悲鳴が聞こえた(気がした)。こんなことがらがまざまざと時空を超えて甦ってくる★志賀直哉については、奈良にある彼の住居跡を見学したことや、3週間もの温泉療養を思うにつけ、豊かな生活ぶりが気になる。私たちの金婚旅は、わずかに一泊。彼我の差に考え込んでしまう。僅かな散策先に城崎文学館を選んだところ、この地に彼が来てこの小説を書いたことが、今になお〝地域おこし〟の糧になっていることに複雑な思いを禁じ得ない。私たちが訪れた日から25日までの11日間、『豊岡演劇祭2022』が始まった。偶々城崎温泉駅でもスイッチ総研なる演劇集団の観光列車「うみやまむすび」を使っての劇のリハーサルとぶつかった。直哉に代わって、大成功を祈りつつ、一日一本の「はまかぜ」の人になった。(2022-9-17)