最近の国会での安保法制をめぐる議論や憲法審査会での憲法学者による「憲法違反」の指摘などを見聞きしていると、いささか筋違いの方向に向かっているような気がしてならない。集団的自衛権を行使することを可能にすることは、現行憲法の規定からは違反しているというのは誰が考えても常識であろう(公明党は限定的行使はセーフと云っているのだが、あまりその主張は聞こえてこない)。長谷部恭男、小林節さんたち3人の憲法学者が「憲法違反」だとこぞって述べた事は当然だ。与党の一角を形成する公明党もかつて集団的自衛権行使は違憲との姿勢をとってきていた。問題は、憲法違反と指摘されても仕方がない、きわどい憲法解釈をせざるをえない国際情勢が展開しているということだろう。今のままの憲法解釈では「北東アジアの緊急事態に対応できないではないか」「憲法守って国滅ぶでいいのか」という問題提起が今こそなされるべきなのだ。その意味では憲法学者の違憲論を聞くのではなく、国際法や国際政治学者の容認論的意見を聞くことがあっても良かったと私なんかは考える▼先日、柳澤協二さんと対話をしたことを紹介したが、その際に話題になったことのひとつに植木千可子早稲田大学教授のことがある。彼女の書いた『平和のための戦争論』をめぐっていささか論評をかわした。元をただすと、植木さんのことは、柳澤氏が文筆家として登場するきっかけとなった二つの対談集(『抑止力を問う』と『脱・同盟時代』)で知った。気鋭の学者として注目される人だということを私はこの2冊で認識を新たにした。先に紹介した柳澤氏の『亡国の安保政策』にも、巻末の対談集として早稲田の天児慧教授と並んで植木さんとのものも掲載されている。柳澤さんの本は私の見るところ対談の方に妙味があるような気がしているが、これもそれを裏付けていよう。植木さんの特徴は、ずばり「リベラル抑止」という考え方だ。こういうとなんだかこと新しく聞こえるが、ちっとも新しくない。言い古されたことで、抑止力は軍事力のみにて充てるものにあらず、ソフトパワーの集積も加わってできるということだと私は理解している。そしてそれって、公明党の年来の主張と一致していると思われる▼植木さんは、この「リベラル抑止」使用には理由があるという。「現在の安全保障議論には、ややもすると軍事的に強く、威勢のいいことを言うことが問題の解決だというふうな論調が一方にある。また逆に、いやそうではなくて,経済さえしっかりしていればというリベラルな議論が片方にある。その中で、実は折衷案がいかに大事かということを訴えたくて、あえて「リベラル」と「抑止」という結び付かない二つをくっつけて、メッセージとして名前を付けたのです」と。折衷案だなどと聞くと、なぁんだってことになってしまう。しかし、今はこういう視点が強調されなさすぎる。植木さんが『平和のための戦争論』で最後に主張している「三つの私の考え」も平凡ではあるが、見落とされてはならない重要な論点に違いない。一つは、どのような場合に集団的自衛権を行使するのかについて、国内で幅広い議論をする必要があるということ。二つは、中国との関係改善と関係強化に全力を傾けること。三つは先の戦争に対する日本人による検証だ。いずれも今の国会や論壇において欠落しがちなものだと思う▼ただあえてこの人の議論に注文をつけたいことがある。それは柳澤さんとの対談(『亡国の安保政策』)で、「私は、日本が戦後なし遂げてきた、築いてきたことは本当に素晴らしいことだと思います。そこにもっと誇りを持つべきであって、戦前に何か国のプライドだとか、そういったものを見出そうとする必要はないと思います」というくだりだ。これは戦後、戦前を対立的に見てしまう浅い見方だと指摘せざるを得ない。私は戦前戦後と一貫して流れる西洋思想偏重主義への深い反省がないという観点からは戦前も戦後も同罪だと思う。確かに、自由、平等、民主主義といった戦後民主主義の考え方は西洋思想の根幹だ。しかし、それは同時に、環境破壊をもたらす人間中心主義や生きとし生けるものへの普遍的な愛の欠如、さらには経済偏重の考え方を助長する。明治維新以降の科学信仰で欧米列強に追い付け追い越せで、150年走ってきた。その結果、外来思想の日本的アレンジを怠ってしまったことのしわ寄せが今一気に来ているとの認識が求められるのではないか。この点にまで考えを及ぼしている論者にはなかなか見当たらないのだが。(2015・6・11)