日本人としての問題意識の共振
亡くなって40年近く経つわが父を,最近は思い起こし、息子たる自分と比較することが多い。何かにつけてうるさかったことや、ささいな仕草に至るまでそっくりだと家人に指摘され苦笑してしまう。そんな次元に留まっているうちはいいが、このところ少し妙なことに気づいた。両の手のひらに、しこりやきわめて小さなこぶのようなものができて皮膚がひきつる。これって晩年の親父が気にしていた症状とまったく同じ。幾度か手のひらを見せられたものだ。先年、整形外科にいくと医師が「デュピュイトラン拘縮」との診断をしてくれた。ひどくなると、切開手術をするという。「遺伝」の二文字を思い出し、切開するかどうかは寿命との競争だと考えざるを得ない。明治43年(1910年)生まれの父は、私が生まれた昭和20年(1945年)には35歳だった。その前年に赤紙が来た。”遅すぎる応召”に敗戦必至を予感したと、遠い日に聞かされた。
こういった私的な出来事を書き記すきっかけとなったのは、安部龍太郎『維新の肖像』を読んだからだ。直木賞受賞となった『等伯』を、法華経学者の植木雅俊さんから勧められて読んで以来、すっかりファンになってしまった。総合雑誌『潮』に連載されていた頃は気になりながらも読めず、今頃になって手にした。それは「明治維新」の位置づけを,最近しきりに考え出している自分の問題意識の影響と無縁ではない。朝河正澄(前の宗形昌武)と朝河貫一という実在の親子の物語を、二人の克明な対比と共に描いた小説は、「維新」の表と裏を浮き彫りにして、読みごたえがあった。戊辰戦争における二本松藩の壮絶な戦いを改めて突き付けられ、感じ入ったものである。
何がどこで間違ったのかとの問いかけ
朝河貫一は、米国・イェール大学教授に日本人として初めてなった歴史学者。著者の安部さんの主張と小説で描かれる貫一の想いが二重写しになって迫ってくる。息子・貫一は「明治維新は大化の改新とならぶ叡智に満ちた革命だと信じて疑わなかった」から、父・正澄の戊辰戦争に加わった行動は、時代の流れに逆行するものだとしか思えなかったのであろう。この貫一の考え方が、日露戦争以後、満州事変、上海事変の流れを通じて、日本が破滅へと向かう中での誤りとの認識に結びつく。
安部さんと貫一の二人に共通する問題意識は「日本はどうしてこんな国になったのか。何がどこで間違ったのか……」である。薩長史観と反薩長史観はこれまでも幾度かぶつかり合ってきた。これまでの結論は、日本の近代化にとって明治維新政府の強引な進め方は、それあったらばこそアジアで抜きんでた地位を築くことが出来た、というものであろう。功罪相半ばするが、功が上回っているとの受け止め方が〝通り相場〟だった。しかし、その流れが今激しく逆流しつつある。
こういったとらえ方を一段と高めてくれる役割をこの『維新の肖像』は果たす。関東軍の他国侵略の姿を「薩摩や長州が戊辰戦争においておこなった所業を、判で押したように繰り返している」ととらえ、「明治維新を美化し、彼らの自己正当化を許した史観や教育や世論が、こうした過ちを継続させる温床となった」と、息子・貫一は語る。それは即、今の世に続いているというのが著者の警告に違いない。この本を読んで改めて、維新前と維新後の日本文明の変容という問題に想いを致さざるを得ない。
かつて「戦後七十年を問う」という総合雑誌のシリーズ企画に、国文学者の中西進さんが「詩心と哲学こそが国を強くする」という印象的な小論を寄稿されていた。「日本はアジアの文明をすべて受け取ってきて拒否せず、たくましい創造性を発展させてきた」のだから、アメリカ型グローバリズムに劣ったりはしていないとの主張であった。確かに古来、日本は外国から流入してくる文明を受容しながら日本風に変容せしめ、独自の発展を遂げてきた。ただし、明治維新以来の150年余(2度にわたる「77年の興亡」)は、欧米文明との悪戦苦闘の時代であり、その〝戦果〟たるや混沌としており、未だ定まってはいない。新たなる地平を築くものこそ「詩心と哲学の復興」に違いないと思われる。
【他生のご縁 法華経学者の出版記念会で】
安部龍太郎さんに初めて会ったのは、先に触れた植木雅俊さんの出版パーティーでした。大変気さくな人で直ちに打ち解けました。すでに法華経の凄さを植木さんから伝授されておられて、その会でも鮮やかな挨拶をされました。後にNHK『100分de名著』に植木さんが担当した「法華経」の最終回にも登場されたのは印象に残っています。
安部さんは昨年晩夏に、朝河貫一と徳富蘇峰を描く『ふたりの祖国』を、公明新聞紙上で連載をされ始めました。直ちに、喜びを現す書状を送りました。「浅学非才の身には重すぎるテーマですが、書いておかなければならないという使命感で取り組んでいます」との返事が返ってきました。