世界の美の歴史を変えた「謎」に迫る、と鳴り物入りでいま開催されている「レオナルド・ダ・ヴィンチと『アンギアーリの戦い』展」。先日、京都・右京区に仕事絡みで行く機会があったので、足を伸ばして京都文化博物館に行ってきました。東京富士美術館での展示が終わってから一か月余、待ち遠しい機会でした。ダ・ヴィンチについてはあの永遠の微笑み「モナリザ」が有名です。恥ずかしながら、今回のものは、聖教新聞の記念対談(6・1付け)やNHKの日曜美術館の放映(6・28)を見るまでは全くと言っていいくらい知りませんでした。16世紀初頭に描かれた「アンギアーリの戦い」は、後世の画家に広範囲な影響を与えたといいます。この壁画が描かれる”以前と以後”とでは、全く違うというのです。以前は平面的・装飾的で静止画だったのが、以後の絵画の世界は、奥行きが立体感のある動画のように変化した、と。確かに、今や電車の中吊り広告で宣伝されている「タヴォラ・ドーリア」という軍旗争奪場面を見ると、そのダイナミックさがなるほど良く解ります▼京都での興奮冷めやらぬ思いのまま、神戸の兵庫県立美術館に行きました。そこで開かれていた「高砂会の創の書展」に顔を出すためです。この会は神戸ではもちろん全国で知る人ぞ知る、書家・高砂京子さん率いる文字を創造的に描き表す人たちの集まりです。わが妻が数年前からこの会に所属し、教えを乞うていることもあり、時々開かれる展示会をのぞきます。文字で(文章ではなく)どれだけ自己を表現出来るかということを試そうという狙いは、まことに斬新です。高砂さんの作品を見るたびに、漢字が絵画へと鮮やかに変身する表現ぶりに魅了されてしまうのです。この美術鑑賞のハシゴをしたあと、神戸のホテルで開かれた高砂会の創立15周年をお祝いする会に出席しました。高砂会員である妻に、あれこれと促されてしぶしぶ。会場の入り口で、神戸新聞の高士薫社長や前神戸市長の矢田立郎さん、それに加古川在住の作家・玉岡かおるさんらと出会い、いきなり盛り上がってしまいました。いずれの方々とも旧知の間柄ですから、気分は一変。人間って勝手なものです▼その会場受付で手渡されたものが『高砂流 「創の書」 文字遊び』との本でした。高砂京子さんの新刊書です。書名の肩には、ココロをカタチに、とありました。この本はもちろん彼女の流派の命である「創の書」とは何かを解題するもので、まことに心浮き立つ素晴らしい内容です。もっともこれは本というよりも、文字画集とでもいうべきものでしょうか。ページをめくっていくだけで,心はなごみ目はみひらかれされるものです。つまり、文章は少なく、文字遊びの実態を写真で見せる編集になっています。ただ、少ない文章がまたなかなか読ませるのです。「はじめに」と「12か月 文字徒然」というエッセイにはこころを絡めとられてしまいました。いや、それ以外にも。とくに第一章の中ごろに織り込まれた「雨に想う」はとても印象的な一文です▼書家として駆け出しの頃、彼女は単身ニューヨークに渡ります。自分の書の可能性を見出すために。そんな旅先で、ある人から「書は美しい。でもこの書の中に、あなたの個性はどこにありますか」と問われ、大いなる衝撃を受けたといいます。ホテルへの帰り道、この質問を反芻しながら雨に打たれてセントラルパークを駆け抜け、ふと顔をあげたその時、雨に煙るニューヨークの街並が目に飛び込んできました。その瞬間、頭の中で何かが弾けた、のです。一心にそのインスピレーションを文字に託して出来たのが「ニューヨーク・レイン」で、「高砂流『創の書』の生まれた瞬間」だ、と。このコラムに私は強いインパクトを受けました。雨がしきりに降る時季。秋雨前線のいたずらというにはあまりにも残酷な鬼怒川の氾濫など胸痛むものがあります。だが、この高砂さん描く「ニューヨークの雨」ほど素敵な雨を、私は知りません。レオナルドの絵画から高砂京子の「創の書」へー芸術は永遠といいますが、私は”とばくち”でいつまでも佇んでいるだけ。そんな身にとって、またしても啓発を受ける大事な機会となりました。(2015・9・13)
【高砂京子さんの会の展示会に一度だけ私も出品したことがあります。およそ平凡な字で、思い出すだに恥ずかしいことです。『文字遊び』というタイトル通りに、字を絵画風に描く高砂さんの書風は素晴らしいの一言です。文字を使って頭をひねることは好きでも、高砂さんのように絵の方にはとても描けません。この人の発想はいよいよこれから大きく羽ばたくに違いないと、予感がします。(2022-5-9)】