『異邦人』(1943年刊)という小説は、フランスの植民地アルジェリア(1830年占領〜1962年独立)の首都アルジェに住む若い男がある日、衝動的に殺人を犯してしまうことから始まる。その情景を中心に描かれた第一部と、殺人の罪を裁く裁判の経過を辿った第二部とから成り立つ。そこには読むものをして驚かせるような、何らかの劇的要素があるわけではない。ただひたすら暑い日に、何となく銃の引き金を引いてしまったとの〝不毛の説明〟があるだけだ。著者のアルベール・カミユはフランス領時代のアルジェリアの出身。彼はこの書に続き第二次世界大戦後に書いた『ペスト』など一連の小説が評価されて、1956年にノーベル文学賞を受賞している◆『異邦人』は、20世紀最大の文学作品の一つとして位置付けられているが、その理由の鍵を握るのは「不条理」との言葉だ。すじみちが通らない、理屈通りにいかないことを指す語句がこの小説を表すのに打ってつけとされ、以後の時代のひとつの潮流を説明する場合にしばしば用いられていく。「不条理」がキーワードとなっていく背景には、ヨーロッパ世界における「神の存在の否定」が色濃く反映する。言い替えれば、人間は本来的に何ものにも縛られることのない「自由な存在」だということになる。裏返せば、何をしても許されるということに繋がるのかもしれない。何世紀にもわたって信仰に真面目な人間の軛(くびき)になってきた〝神の呪縛〟からの開放を意味するものと捉えられよう。かつて若き日の私も、サルトルの『嘔吐』に魅入られ、カミユの『シシュポスの神話』に惹きつけられ、「実存主義の哲学」に〝根拠の薄い〟憧れを抱いたものだ◆カミユは『異邦人』を『きょう、母さんが死んだ。きのうだったかもしれないが、わからない」との有名な書き出しで始めた。それに対して、独立後のアルジェリアで生まれ育った作家・カメル・ダーウドの『ムルソー再捜査』(2013年刊)は、「きょう、マーはまだ生きている。彼女はもう何も言わない」で始まる。明らかに前者を意識し、逆転させた書き出しである。『異邦人』の中身を受けて改めて吟味する試みだ。ほぼ70年遅れて、被害者の側からの反撃がムルソーに、つまり著者・カミユに突きつけられた。ダーウドは、ムルソーに殺された名もなきアラブ人の弟・ハールーンの立場から、反植民地主義の狼煙を上げる。しかし実は、この積年の恨みを晴らすかのように立ち上がったハールーンはまた、過去にフランス人を殺していた。しかも、アルジェリア独立戦争下ではなく、平和な日常生活のさなかに。大義なき、正当化不能の行為だった。その立ち位置はまるでムルソーと一緒だったのである◆キリスト者とイスラームと──カミユが描いた人物の対極にあった男は、信仰の対象は違えど、崇拝すべき神の束縛からは自由であるとの一点で、共通していた。この興味深い小説の登場について、現代世界文学の研究者たちは、『異邦人』への回帰現象と捉える。「他者への無関心や社会に対する反抗と、この世に対する深い愛着をあわせもつ主人公(ムルソー)の姿に改めて思い至る」(野崎歓放送大教授)といい、「強靭な否定性と根源的な肯定性の融合」に、カミユが作り上げた人物像の不思議な魅力があると捉える。さらにこの文学作品上の連鎖が、次なる新たな文学を生み出し行く契機になるというのだ。その繋がりの妙もさることながら、私は仏教との関連を考えてみたい。前掲の宗教と違って「釈迦から日蓮へ」と続く大乗仏教の本質は、神への捉え方が全く異なる。このため、神の束縛は元々ないし、「不条理」に悩む環境も想定しづらい。このあたり、居住まいを正し、稿を改めて考えていきたい。(2024-4-28)