『プロメテウスの墓場』が世に出た1995年当時は今と同様に、あるいはそれ以上に内外の情勢は混乱を極めていた。とくにソ連の崩壊で、いわゆる「東」は上を下への大騒ぎだった。20世紀の世界が轟音たてて変わりゆく中、同時中継を見るようにこの本を貪り読んだ。著者は1992年から5年ほど朝日新聞記者としてモスクワにいた。この本では激動するかの国の舞台裏を渾身の取材で露わにして見せた。題名は「原子力」をギリシア神話のプロメテウスに見立て、その末路を表す。行き場を失った原子力潜水艦、武器商人を介して闇マーケットに流される核物質、海洋投棄される核廃棄物などの実態をリアルに描き、その無惨な姿を墓場に喩えた。書き出しは印象深い。「真冬の北極圏は、太陽に見放される、12月、うっすらと明るくなるのは、午前11時過ぎから午後2時くらいしかない。漆黒の闇に包まれる夕刻ともなれば、凍てついた道の上を最大で秒速三十メートルの寒風に乗って吹雪が走る。ところどころにたつ街灯の鈍い光に照らされた雪は、まるで蛾の乱舞のようだ」━━ロシア北極圏のムルマンスク州にある町・ボリャルヌイの冬を鮮やかに描きだし惹きつけてやまない◆この本を読み終えたその時から、次作を待ちに待った。国際政治の内幕を次々に読み聞かせてくれるはず、と期待したからだ。朝日新聞のエースのひとりとしての呼び声高く、モスクワ勤務から後にアメリカ総支局長へと栄進し、やがて政治部長となり、更に経営陣の様々な重要なポストに就いていったが、共著は何作かあったものの、単著としては一向に2作目は目にすることが出来なかった。本業が忙しかったと思われるが、待つ身も辛かった。あれからほぼ30年。あの当時を強く意識させる本が出た。『記者と官僚』━━外務省主任分析官だった作家の佐藤優さんとの対談本である。腕組みした2人が互いに背を向け、思わせぶりな目でこちらを見やっている写真が表紙に。思わず目を逸らしたくなる。強いインパクト。サブタイトルには「特ダネの極意、情報操作の流儀」とある。総選挙の対応で慌ただしい日々が続いた後に、一気に読んだ。帯に「暴こうとする記者。情報操作を目論む官僚。33年の攻防を経て互いの手の内を明かした驚愕の『答え合わせ」とあるように、ソ連崩壊前夜の1991年2月に初めて2人が会った時以来の、虚々実々の駆け引きの全貌が登場する。前作と趣は異なれど〝30年の期待〟を裏切らぬめっちゃ面白い本である◆処女作を回顧するかのようなくだりを見つけた。「地元ロシアのメディアに先んじて、冷戦時代の地図には載っていないシベリアなどの核封鎖都市の数々を訪ねたり、中央アジア、ロシア、ベラルーシの戦略核ミサイル基地や極北の原子力潜水艦基地の内部に入り込んだり、核物質密輸の犯罪集団を追跡したりという、今だったら確実にスパイ罪で捕まるような危ない取材をすることができました」と。30年前と今を繋ぐ〝西村タッチ〟は、〝かくも長き不在〟を詫びるおみやげのように登場するのだ。この本は、拙著でいう『77年の興亡』の末に、共に危機的状況を迎えた「記者と官僚」という2つの職業の〝華やかなりし頃の成功譚〟でもある。待ち受ける苦難の道を厭わずに挑戦する若者や、越し方を振り返る高齢者にとって、学び慈しむ教訓が満載されていてとても得難い。とりわけ①国益の罠②集団思考の罠③近視眼的熱意の罠④両論併記の罠⑤両論併記糾弾の罠という「5つの罠」には考えさせられた。我が政治家人生にとっても痛恨の一事であった「イラク戦争の顛末」は②を噛み締めることで改めて深い反省へと誘わせられる◆この対談で、私が惹きつけられたのは第6章「記者と官僚とAI」。ここでは記者が書く原稿、官僚が取り組む「答弁対応」へのAIの導入といった問題から、既存メディアの生き残りの道に至るまでが語られ、示唆に富む。西村さんが「メディアの敗戦」について「メディアがコストをかけて取材したニュースコンテンツについて、まっとうな対価を得ることがないまま、世界中で巨大プラットフォーマーに対するニュースの提供が広がったことを意味」するとした上で、「正当な対価を組織的に求めるべきだ」としている点は注目されよう。この辺り、〝30年の不在と復活〟へと思いは馳せる。なお、佐藤氏が「近年朝日新聞が集中的に扱ってるテーマの中で、唯一評価しているのはホストクラブ問題なの」と述べたのに対して、「唯一か?(笑)」と西村さんが返したところには心底笑えた。また、一連の「朝日新聞の失敗」への弁明もさりげなく盛り込まれていて、それはそれで読み応えがあった。(2024-11-10)
●他生のご縁 公明番記者いらいの〝読書仲間〟
西村陽一さんとは彼が公明党の番記者をした短い期間のお付き合いが「始まり」でした。どっちも本が好きで、会うたびにどちらからか「今何読んでるの」と聞いたものです。
偶々私がワシントンを訪れた際に、彼はアメリカ総局長をしていましたが、その次に出会ったのは朝日新聞大阪本社が新しくなった時の「披露宴」。私は万葉集学者の中西進先生と一緒に出席していました。なんとその場に彼は常務取締役で東京からやってきたのです。