〝いびつな位置関係〟と〝ぼんやりした部分〟
司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズの『愛蘭土紀行』を読んでアイルランドという国に興味を持った。その本を携えて首都ダブリンに行ったのは2006年のこと。待ち受けていてくれたのは駐在大使の林景一さんだった。日愛友好関係に貢献された方を表彰する式典に、日本政府を代表(町村信孝外相の代理)して出席した━━というと大袈裟だが、ウソではない。石破茂氏らと共に防衛庁の省昇格に伴う課題調査のためドイツと英国を訪問した帰途に、ひとりロンドンから寄り道をした。当時の私は厚労副大臣だった。林さんの外交官人生の〝イロハのイロ〟としての米英両国。大使デビューはアイルランド。その任を終えて、この本を出版された。読むと、アイルランドを〝補助国〟にして、米英と日韓の関係を〝ロハ〟(只)で解説してもらった気がする━━というのは言葉遊びが過ぎようか。太平洋を真ん中にした地図では隠れている英愛両国が、大西洋を中心にして見直すと、目の前に現れる。と同時に、日本は視界から消える。そんな〝いびつな位置関係〟による〝ぼんやりした部分〟を鮮明に見せて貰った━━随分と得をした読後感を味わえる本である。
中学校の時に林さんは映画『大脱走』を観て、主題歌を口ずさんだ。その英語体験から話は始まる。以下、『風と共に去りぬ』『黄色いリボン』『タイタニック』『名犬リンチンチン』など懐かしい映画やドラマの話が続いてワクワクする。映画好きがかつて嵌まった物語の背後に、アイルランドの歴史が秘められていたことが分かってドキドキもする。西部開拓史にも南北戦争にもアイリッシュが深く関わっているうえ、現代の野球やボクシングなどスポーツや美術、文学など芸術の分野でも活躍する人たちが数多い。アイルランドから累計700万人もの移民がアメリカに渡り、現在4000万人ものアイリッシュ系アメリカ人がいるとのこと。ケネディ、ニクソン、レーガン、クリントン氏ら大統領経験者たちも20人ほどに達するとは驚く。英国から新天地を求めた人々によって米国は建国されたと、単純に考えていた者にとって、アイルランドの役割は〝新発見〟だが、カトリックとプロテスタントの違いなどキリスト教を軸に的確に腑分けする著者の記述は実に分かりやすく面白い。
「最も近く〝最も憎い国〟」という位置付け
そして舞台は英国へ。「最も近く〝最も憎い国〟」との位置付けは、今もなお火種が燻る「北アイルランド」問題を持ち出すまでもない。だが、林さんが大使在任中にこの問題は政治的には「大団円」を迎えた。両宗派のトップを首班とする自治政府が成立した。この本の執筆時点で残っていたエリザベス女王のアイルランド国訪問も、「早晩実現する」との著者の予測通り、3年後に実現したのである。「ケルト」神話に始まる古きアイルランドの歴史を紐解き、英国による侵略、植民地化、併呑の流れを描く。「一方の英雄、守護神はもう一方の極悪人」と聞くと、直ちに日韓の関係に思いが浮かぼう。矢内原忠雄(元東大総長)の「英愛」と「日韓」の関係史を比較した論考に遡った上での著者の見立ては興味深い。「英愛和解」への5つの視点のうち、「(両国が)歴史的わだかまりのマグマを北アイルランド和平構築への協同というエネルギーに変えていった」ことの効果が高く評価される。その過程でアイルランドの「英国憎悪」の必要性が消滅し、それが和解を容易にした、と。
最終章では、彼の国を「姿見」として、日本が己がふりをただす試みに挑む。以下、日愛比較の私見を示したい。「人間以外に資源がない」とのハンディを抱える日本とアイルランド。教育に力を入れようとする姿勢や移民・外国人に対する親切な接し方には共通点を感じるものの、「小国ゆえの『弱い者の見方』」という指摘には違和感が漂う。比べるには国の規模が違い過ぎるのかもしれない。日本では国民レベルでの「小国」との認識が客観的にはギャップがあり、自画像にズレが生じている。「中立国への固執」については、日本人にとっても見果てぬ夢。柄は大きいくせに未だひとり立ち出来ていない子どものような日本。小国であっても背筋の整った大人の国柄ぶりを発揮するアイルランド。私には無性に眩しく見える。
●他生のご縁 国会で、ダブリンで、東京界隈で幾たびも
林景一さんとのお付き合いは長く、もう30年近くになります。衆院外務委員会に所属することが多かったので、条約局長、国際法局長だった林さんにはしばしばご指南を賜わったものです。そのつど優しく丁寧に深い蓄積を披露してくれました。
アイルランドに滞在した2日間はめくるめくような時間の連続で、あの場所、この町へと案内いただきましたが、あらかた忘却の彼方に。残っているのは彼の心細やかな気配り、目配りの手触りの温かさです。
ダブリンの大使館での式典で私は岡室美奈子早稲田大学教授(のちに坪内逍遥演劇博物館館長も兼務)を紹介されました。アイルランドが生み出した劇作家サミュエル・ベケット(ノーベル文学賞受賞者)を研究する女子学生だった頃に、司馬遼太郎さんと出会ったことが『愛蘭土紀行』に出てきます。林大使が取り持ってくれたご縁を大事して、その後も3人で懇談を重ねました。この集いのたびに私は〝司馬さんの影〟を見てしまいます。