筒井康隆さんの本を過去に読んだのは『文学部唯野教授』くらい。私が通った中学校がある垂水に在住する人ながら殆ど疎遠な存在だった。尋常唯ならざるその作風に恐れをなして、正直一筋でひたすら真っ当な論考や小説を好んできた私は自然に遠ざけたというのが正直なところである。そんな私が興味を持ったのは、NHK テレビでの『100分de名著』シリーズでこの作家を特集していたものを観たことによる。数ヶ月に一回、集中的に1人の作家の作品を4-5人の多彩な「本読みの手練れ」が一堂に会してあれこれと論じるのはまことに興味深い。今回も1月3日に放映されたものをしっかり観た。中条省平、大森望、菊池成孔、池澤春菜、カズレーザーという連中が事細かに「料理」していた。その最終部分に映画『敵』を監督した吉田大八さんがコメントで「老いを受け入れて楽しむという普遍的なテーマ」を表現しており、「世界文学のレベルに到達している」との激賞ぶりに注目、原作『敵』を電子本で読んだ◆ここでタイトルの『敵』は何を意味するのか。一般に敵はうちとそと、内外両面が考えられよう。うちなる敵は老いを増すにつれて現れる身体、精神双方の老化による自壊であろう。もう一方、そとなる敵は、小さくは我が身に害をなす他人であり、大きくは地震や大豪雨などの自然災害であったり、いわゆる敵国と呼ばれるような侵略してくる外国勢力であろうか。先のテレビ番組での放映シーンでも、注文すると同時に送られてきたKindleの目次でも大枠でそういうことに違いないことが分かった。ただしその文字による表現や描写は、この作家らしく一筋縄ではいかない。具体的な外敵なのか。老化の末に忍び寄る死なのか。こう真面目に考えてしまう。元大学教授の75歳の老人。妻に20年ほど前に先立たれ、東京山の手の住宅街でひとり住む。この主人公の日々を、自身が微に入り細に渡ってこと細かに語っていく。という手法なのだが、まさに、衣食住、春夏秋冬、朝から晩までの生き様の「老年図鑑」「老年解体」でも呼べるような、極めて異色の物語風読みものなのである◆まず、文体が奇妙である。ほぼ全文、時折の例外を除いて、読点がない。ずっとそのまま区切りなく文章がつづく。(といっても、突然、読点が復活したり、まずは気まぐれというほかない)。それでも読みづらくはない。また、雀の鳴く様子を痴痴痴痴痴痴宙宙宙注注注と表したり。人間の泣く様子を、翁翁翁翁、懊懊懊懊と擬音を当て字で描いてみせる。おまけに巻末に、ただ雨の降る様子を使徒使徒とか死都死都と書いて、あとは一面空白などという独自の表現方法を駆使して読者を翻弄し、夢想の世界に引き入れるといった風である。もはや私のような真面目人間にはついていけず、解説の川本二郎氏に頼るしかないと、隣席の友だちの答案用紙をカンニングをするように目をやると、まるでその彼も困惑しているかのようだった。でも、勿論私よりはマシで、あれこれと書いてあり、いつか教師の目も気にせずに、じっと見入ってしまった昔のあの頃を思い出す◆川本は、老人のパソコンをしている様子についての表現が、ある時から「謎めいた不可解なメッセージが入るようになってくる」として、「敵です、敵が来るとか言って、皆が逃げはじめています。北の」とのくだりをあげて、その表現の気味悪さを指摘する。「『敵』とはなんなのか。具体的な侵略者なのか、それとも朦朧としていく意識の中に突然やってきた死なのか」と。正直に告白すると、私は電子本の52%あたりの「敵」という項目で、もう真面目に読むのを放棄したくなった。初めはただの老人のごとく、終わりはわけわからん。もう後は飛ばし読み。ひたすら映画を観て、この部分の映像の作り手の理解を待つしかないとの気分になっている。新手のカンニング方法を編み出して答案を書くいとまもなく、白紙で出した昔の悪夢を思い出しながら。(2025-2-9)