国会における予算案審議がやま場にさしかかっており、与野党の折衝で「高校の授業料無償化」が大きなテーマになっている。そんな折に理論誌『公明』3月号で興味深い論考を見つけた。タイトルの頭に、「『教育の党』公明への期待━━」とつけられた上で、「『人と予算』の拡充で学校現場の課題は解決できる」とある。長時間労働や教員未配置など過酷な教育条件の下で、困難な教育課題解決に奮闘している学校の先生たちを救う手立てが予算増だとの主張である。学校現場には、教えられる子どもの側の、いじめ、ひきこもり、自殺といった悩みと共に、教える側の方にも多大な課題がある。それへの支援を訴える内容なのだが、最初と最後に公明党への期待と不安が垣間見え、気になった。一方、21日の衆議院予算委で公明党の浮島智子議員が、高校授業料の無償化に関して、より一層の支援拡大を主張するとともに「質の高い教育と両輪で考えるべきだ」と強調していた。こういった教育にまつわる直近の状況を背景に、広田さんの本を読んだ◆この本は、教育学研究者としての長年の蓄積を持つ著者が若い人向けに、教育と学校について語った長編のエッセイである。冒頭に述べたような今の世の中で話題になっているテーマの、基礎部分に横たわると思われる問題についての見解が述べられている。①教育と社会化②学校の目的と機能③知識と経験④善人の道徳と善い世界の道徳⑤平等と卓越⑥人間とAI⑦身の回りの世界とグローバルな世界といった7章立てだが、私自身が興味深く読むに至ったのは、④の道徳と⑥のAIをめぐる議論である。前者は古くから論じられてきた定番ものだが、後者はごく最近になって浮上してきたニューフェイスである。読み終えて、新旧両課題に深く関わる問題に共通するものがあることに改めて気づいた。それは何か◆道徳教育のあり方を考えようとすると、「途端に気が重くなる」と著者は正直に吐露している。なぜかというと、「道徳とはそもそも何か」「どういう道徳を教えるのか」「道徳は教えられるのか」などといった「面倒な問い」に直面するからだ。著者は「道徳」の問題には「(あるべき)自己の問題」と、「(あるべき)世界の問題」との2種類の問題群がありながら、学校現場では前者のみしか、教える対象になっていない、と指摘する。「今の学校教育は『道徳教育の教科化』とかが進められてきたにもかかわらず、子どもたちが『善き世界の倫理』について考え、判断能力を磨く機会が欠落している」というのである。こう展開する著者の口ぶりは、「政治家の古びた道徳論」「『教育勅語を学ばせろ』と叫んでいる政治家の行状をみると、『この政治家自身が道徳的に見て大丈夫か?』と思う」などとの記述にみるように、政治家への不信が漲っている。「国が一律の道徳的な中身を定めて学校で教えさせるというやり方は果たして妥当なのか」と、「道徳」をめぐる根源的な疑問も提起されているのだ。一方、新たな課題としてのAIをめぐっても厳しい。人間とAIが共生していく社会に向けて、今の学校教育は①雇用変動への対応育成②社会設計をめぐる公共的な議論③人間のみが享受し得る文化(芸術、文化、身体運動)を身につけるために、必要な技術、知識、スキルを持つ必要がある。それには未来社会の選択の方向を左右する政治のあり様が決定的に大事であるとの結論に到達する。つまり、以上述べたように、道徳、AI2つの課題解決の前に立ちはだかるのは、共に「政治」なのである◆今の日本の「教育」現場が直面している問題は、政治家、特に保守政治家(自民党文教族)が高い関心を持ってきた「思想的偏向」への警戒から、いわゆる「民主主義教育」に反発してきた歴史がある。だが、その総決算として、70万件を超える膨大な数の「いじめ」、30数万人にも及ぶ「引きこもり」、そして毎年増えていく「自殺者」件数(2024年度で527人)という暗い数字があるのかもしれない。しかも、大学教育の所産も昨今のレベル低下ぶりは悲惨な姿という他ない。そういった事態打開のためには、冒頭に述べたような「高校授業料の無償化」だけでは、かえって公私の格差拡大に拍車をかけることになるのが関の山だ。当面する課題解決のみに囚われていては禍根を残す。「潤沢な予算」で人材を供給するのと、ダイナミックな「教育理念」で人を育てる試みは「車の両輪」に違いない。旧態依然とした「学習指導要領至上主義」から「自由」をキーワードにした新たなる目標への転換こそが、教育行政の第一歩であろう。(2025-2-23)