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(231)「死刑存続か廃止か」の議論を想起ー佐木隆三『復讐するは我にあり』を読む

世の中呆れるばかりの恐るべきニュースが後を絶たない。アパートの狭い自室に若い女性(男性一人を含む9人)を連れ込んで殺し、その遺体をバラバラにし、内臓はごみと一緒に捨て、頭を始め骨などは冷蔵庫や部屋の中に隠しておいたという事件がつい先日起こった。口にすることさえ憚られる嫌なニュースだ。過去に残虐非道な事件は数知れないが、この度のものは特筆されよう。別にそれに合わせたわけではないが、つい少し前に我が書棚に長く眠ったままにしてあった佐木隆三『復讐するは我にあり』を読んだ。この小説は実際にあったものを題材にしたノンフィクションで、映画化もされ話題になっただけにご存知の方は多いはず。かねてタイトルに惹かれて購入したもののそのままになっていた▼この小説は、残虐きわまりない殺人と狡猾かつユーモアさえ感じさせる詐欺犯罪とが入り乱れて出来上がっている。後者における悪知恵の発揮ぶりにはほとほと感じ入ってしまうほど。前半を読む中でなぜにこんな犯罪小説を読ませられるのかと幾たびか辟易したものだが、挟み込まれた知能犯ぶりの巧みさに次第に引き摺り込まれていった。警察を翻弄しきった逃避行が、最終的に幼女の直観に見抜かれるというエンディングもいい。著者はあとがきで40数年の作家生活を振り返り、この作品に最も愛着を感じている風を匂わせ、この小説の改訂新版にこぎつけ古希を迎え(78歳で逝去)て「もはや思い残すことはない」と語っているのが印象深い▼様々な読み方があろうが、この作品は、タイトルがある意味全てであろう。「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』とあり」(ロマ書)と表紙の扉にあるように、新約聖書の引用である。主人公・榎津巌がキリスト教の洗礼を受けているとの設定であることや、かつて交流のあった教誨師宅に逮捕寸前に足を運んでいることなど思わせぶりではある。キリスト教と遠い位置にある人間にとっては、”復讐する我”とは被害者の身内的なるものだと当然ながら想像してしまう。このあたり、「目には目を」なのか、「悪を犯した人間は自然の摂理の中で罰を被るもの」で納得できるのか、大いに判断は分かれるところだ▼これまた偶々なのだが、読売テレビ系の人気テレビ番組「そこまで言って委員会」で、死刑の是非をめぐる討論番組を観る(11・5)機会があった。いつもより以上の壮絶なバトルだったが、なかなか迫力があった。死刑存続を認めるか廃止するか、真っ二つに分かれての大議論は聞きごたえがあった。感情的には「死刑」は当然あっていいというのが自然だが、冤罪がゼロでない以上、命を奪う権利はいかなる場合もあってはならないという結論も無視できない。日本の現状にあっては、疑わしきは死刑にせずとの流れが横溢しており、現実には冤罪で命を奪われるというケースはほとんどないようだ。わたし的には死刑存続は止むをえないとの立場である。(2017・11・12)

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(230)「世直し」よりも「人直し」の大事さー高橋和巳『邪宗門』を読む

本屋に行くと思わぬ出会いがある。東京に行った際に覗いた丸善でパリ第八大学准教授・小坂井敏晶氏の『社会心理学講義』を発見した。この著者については、畏友・志村勝之君(私がなにわのカリスマ臨床心理士と命名)からその鋭さを聞いていたこともあり、ライフネットの出口治明氏の推薦の言葉にも動かされ、直ちに読むことにした。選挙前に購入したこともあって、未だ読み終えていないものの、あれこれと刺激を受けている。アルジェリアに長く住んでいたというこの人の体験そのものがユニークだが、自分の頭で考えるということに、とことんこだわってるところが魅力的である。若い学者から「科学が実験データを基に解釈するように、テクストの解釈が哲学者の仕事だ」と言われて唖然としたり、日本の学者や学生から「何を研究しているのかではなく、誰を研究しているのか」と聞かれて当惑したと「あとがき」に書いている。「あなたにとって、主体とは、時間とは、責任とは何なのか。これらの問いに対して、あなたはどうアプローチして、どのような答えを出すのか。本当に大切なのはそれだけです」。このくだりは当たり前のことを言っているのだが、正直難しい。言い換えれば、解説書の類いではなく、原典、古典に当たれということだ。ややもすれば、わたしたちは様々な解説書めいたものを読んで分かった風に思ってしまいがち。心せねばならない▼そんな小坂井氏が、自分の立ち位置がわからなくなると何度も繙いて読み直すのは「高橋和巳だけ」だという。この書きっぷりにころりと私は嵌ってしまった。全共闘世代と安保世代の中間に位置する私の学生時代はいかにも騒々しかった。ほぼ50年前。その頃、一世風靡した代表的作家が高橋和巳だった。共産主義や社会主義の類いが体質的に合わなかったというしかない私には彼の一連の著作は流行のよすがとして、ざっと読む程度ですませ、ひたすらに宗教活動に邁進したものであった。それがこの歳になってなぜ改めて再読吟味する気になったのか。小坂井氏が引用している以下の文章を読んだのがきっかけだった。「人の解決を盗むのはやさしい。(中略)だが、『思うとは自分のどたまで思うこと』を日本人はまず肝に銘じなければならぬ。でなければ日本人はかつて中国に内面的に従属し、今またヨーロッパに追従するように、永遠に利口な猿となりはてるであろう」。この一節こそ高橋の代表作『邪宗門』からのものである。文庫本上下二巻1000頁にも及ぶ長編小説。明らかに大本教をモデルにして著者が自在に創造の羽を広げた大作であるが、人生の半ば以上を宗教と共に歩み、政治家として駆け抜けた人間にとって、まことにあれこれと考えさせられる中身であった▼大学時代の私は法華経を書物で、そして身体で読んだものだ。当時の一般的な大学生の常識とはかなりかけ離れたものだった。ろくすっぽ大学に行かずに、首都圏各地を西に東に、北や南へと転戦した。昭和40年代前半。胎動する学園紛争を尻目に、深く体内に法華経を根付かせるべく、自分なりの活動に汗をかいた。そういう私には、この本で描かれる宗教的世界は文字通り「邪宗教」的なるものに見え、殆ど体質的に受けいれることが出来なかった。しかし50年の歳月を経て、法華経を思想的にも生命論的にも取り入れた結果として、今改めて読むと実に面白く読めた。高橋和巳は、あとがきにおいてこの小説を書くに至った発想のきっかけを「日本の現代精神史を踏まえつつ、すべての宗教がその登場のはじめには色濃く持っている<世直し>の思想を、教団の膨張にともなう様々の妥協を排して極限化すればどうなるかを、思考実験してみたいということにあった」としている。そう、当時こそ<世直し>の気分華やかなる時代であった。私が大学入学前に創価学会に入会したことを、数か月後に知った親父は、「そうか。もう入ったのか。お前を東京の大学にやると、共産党か新興宗教のどちらかにはいるのではないかと恐れていたが、もう入ったのか」と嘆いたものであった。だが、<世直し>運動を表面的な活動としてだけ捉えるのではなく、まずは人間そのものを革命するという「人間革命」の思想に、私が触れたことは幸い(ほぼ十年後に親父も入会)であった。<世直し>の前提としての<人直し>の思想としての法華経を体内に沈潜させることに邁進できたからである。小坂井氏が高橋和巳を礼賛するのはその「思考実験」のユニークさと徹底ぶりにあると思われる。人の考えたものを受け売りするのではなく、自分の頭で考えるその姿勢に、である▶また、同書の解説を担当している佐藤優氏は「日本が世界に誇ることができるスケールの大きい知識人」であるとの高橋和巳への認識を示すとともに、この本が、「世界文学としての価値を主張できる」と高く評価している。更に世界で現在起きている見えにくい現実の内在的論理を理解するためにも役に立つとも。だが、一方で、彼は「『世直し』の先をもたない宗教は、結局のところ権力を志向するイデオロギーに堕してしまう」し、「世直しに失敗した場合には、自己解体すなわち自殺というシナリオしか残されていない」(『功利主義者の読書術』)と述べ、高橋和巳が破滅の道を歩むしかなかったことを惜しんでいる。加えて「<世直し>型の政治が必ず陥る閉塞状況を見事に表現した作品として、現在も命を持っている」と、地に足をつけた適切な評価を加えている。フランスで学者の道を歩みつつ、出版を通じて現代日本人に真の生き方を問い続ける小坂井氏。一方、ロシアを専門とする外交官を経て、キリスト教信者の眼差しで創価学会SGI運動に深い関心を寄せ続ける佐藤氏。二人の今を生きる知識人の二つの「高橋和巳論」を読み、大いに知的興味を満喫出来た。以上、本の中身には触れずじまい。皆さん直接お楽しみください。とりわけ上がとても面白い。(2017・10・29)

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(229)「奇怪な妄想」の持つ異様な迫力ーカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(土屋政雄訳)を読む

今年のノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏のことを恥ずかしながら殆ど知らなかった。映画化された作品もあるというのに。慌てて本屋に行ったものの在庫はなく、辛うじて『わたしを離さないで』が一冊だけ残っていた。選挙戦に入り、何度か足を運んだ大阪への行きかえりの車中で読むに至った。結果的にこの本を彼の作品の中で最初に手にしたことは幸せだったかもしれない。日本人の両親のもとに長崎で生まれて後に、5歳で英国に渡って以後、そこを離れたことがないという著者の生い立ち。この本は、そうした彼の人的背景の影響をあれこれと詮索する必要はなく、普遍的なテーマに迫るものだからである。「クローン人間と臓器移植」という極めて重いテーマに真っ向から挑む「実験的小説」との色合いについては、ノーベル賞作家に相応しいものと云えよう。ともあれ、総選挙という生臭い俗事からしばし離れて、未来に横たわる人類の重要課題に目を向けさせられ、幾分か高尚な気分になったように思われる▼このテーマについては、実は現役時代に向き合うことがあった。衆議院憲法調査会の一員として憲法改正をめぐる議論に参画した際に、否応なく考えざるを得なかった。当時同調査会の会長であり、元小児科医だった中山太郎氏の口から、将来の憲法にはこのテーマについて記す必要があるとの意見を幾度か聴いた。現行憲法が用意していないテーマを新しい憲法には書き加える必要があるとの観点だったと記憶する。恐らく2005年に発表されて以来、世界的ベストセラーになっていたこの本を読んでいたであろう同僚議員からも、そうした主張がなされていた。ただし、かつて臓器移植法をめぐる議論の際に、自らに近い生命の存続をもたらすために他人の生命の終りを待望することに私は疑問を抱き続けた。そして同時に臓器それ自体にも個人のDNAが色濃く反映しているものを、他の生命体に移すことに大いなる疑問を持ち、当時、政党の縛りがなく個人の判断にゆだねられた採決に、反対票を投じたものであった。しかし、あれから10年を超す歳月の中で、いかにそうした自分の考えが現実の要請と遠いものかを知る機会もままあったことを正直に告白する▶この小説がベストセラーになった背景の一つは、ある意味で推理小説仕立てであること無縁ではないと思われる。英米文学研究者の柴田元幸氏がその解説で、内容を述べることを避ける理由について、「作品世界を成り立たせている要素一つひとつを、読者が自分で発見すべきだと思うからだ。予備知識は少なければ少ないほどよい」と思わせぶりに書いている。不幸なことに私は重要な一点を知ってしまってから読んだ。であるがゆえにも関わらずというべきであろうか、なかなか核心に迫ってこないように思える記述は、闇夜に道に落ちたものを探すかのように、もどかしいものではあった。途中三分の一くらいのところでようやくことの秘密の一端が明かされるのだが、またすっと元の記述に戻ってしまい、なんだか手に入れた落とし物を再び亡くしたかのような錯覚に陥る▶クローン人間がどのように作られるかには触れられず、臓器移植についても具体的な記述は一切ない。すべては想像力に委ねられている。遠からずこうしたことが現実になるのかどうかはわからない。AIが話題になり、ロボットが人間にとって代わることはもはや現実の射程に入っているかに見えていることからすると、このテーマは遠い。いや、わたし的には現実のものとさせないためにこそ著者はこれを書いたと思いたい。この先遺伝子工学がどんなに進もうとも、してはならないこと、あってはならないことについて、著者が創造力の限りを尽くして挑んだのだ、と。つまり、これはまた「カズオ・イシグロ自身の頭の中で醸造された奇怪な妄想」(柴田氏)である、と考える。(2017・10・24)

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(228)人類の歴史を俯瞰する達成感ーU・N・ハラリ『サピエンス全史』(柴田裕之訳)を読む

今年のビジネス書大賞を受賞し、読者が選ぶビジネス書グランプリ1位に輝く本を読み終え、不思議な達成感に浸っている。何しろ全世界で500万部も売れているというのだから。ユヴァル・ノア・ハラリというイスラエル人歴史学者の書いた『サピエンス全史上下』(柴田裕之訳)である。顔写真からは、飛び切り鋭利で神経質そうに見える。あまりお近づきになりたくない雰囲気の人だ。これを薦めてくれたのは笑医塾塾長の高柳和江女史。とにかく面白いと絶賛されたのが8月上旬。彼女が神戸に来た時のこと。で、すんなりと読んだわけではない。なかなか嵌らず苦しんだ。しかしなんとか読み進められたのは、彼女のお勧め本には外れがないことが大きい。また、認知革命から農業革命、そして科学革命という風に、有史以前から今日にいたる135億年ほどの膨大な期間を大きく三つに分け、「文明の構造と人類の幸福」という命題をざっくりと大胆に料理してくれるていること。それに惹かれて何とか読み終えることができた。すると、そこには、何はともあれ人類の歴史を解った思いにさせてくれる達成感と、意外にも仏教徒の誇りを刺激してくれるものが待っていたのである▼いわゆるビッグバンによって、物質とエネルギーが現れ、物理的現象や科学的現象の始まりから、地球という惑星が形成されるまで約90億年。生物学的現象が始まって有機体(生物)が出現したのは38億年前。ヒトとチンパンジーの最期の共通の祖先が誕生したのが600万年前。ようやくアフリカでホモ(ヒト)族が進化して最初の石器が出来たのが250万年前。さらにヨーロッパ、中東でネアンデルタール人が、東アフリカでホモ・サピエンスが進化したのがそれぞれ50万年、20万年前と言われても、ただただそうかいな、ほんまかいな、気の遠くなるほど前のことやなあというのが精いっぱいの感想。ようやく認知革命が起こったのが7万年前と言われて、ようやく正気になると言ったところか。実はここから本書の著述は始まる。それまでは僅か1ページにまとめられた年表からの類推なのである▶ある意味でこの本の構造は簡単だ。要するに人類が地上に棲むすべての生き物を殺戮してしまい、残るのは人類と家畜だけになるという「予言」なのだ。そして、科学革命の行きつく先は、科学者たちが脳をコンピューターにつなぐことで、心をその中に生み出そうとしている、それをこのままいくと誰も止められないのではないのかという「警告」である。この予言と警告はこれまでもいたるところで繰り返されてはきた。しかし、この本ほど系統だてて書いたものはあまりないので、効き目がなかった。しかし、この本はビジネス書の体裁をとってるがゆえに、初めて人類の「傲慢」とでもいうべき罪深き特質を叩きのめしてくれるかもしれない▼最後の「文明は人間を幸福にしたのか」と「超ホモ・サピエンスの時代へ」の2章がとくに関心を持って読めた。わたし的にはこの2章、特に前者を幾たびか読むことで十分にこの本の値打ちが分った。結論はこれまた簡単だ。人類の歴史理解にとって最大の欠落は、「社会構造の形成と解体、帝国の勃興と滅亡、テクノロジーの発見と伝播」といった歴史上の数々の問題が「各人の幸せや苦しみにどのような影響を与えたかについては、何一つ言及していない」ということに尽きる。しかも、著者は、人間の幸せは「汝自身を知れ」との言葉がカギを握っており、これは裏返せば、普通の人々が真の幸福については無知であることを意味するとしている。そして「特に興味深いのが仏教の立場だ」として、己が心を自身で操れる方途としての仏教に強い期待を措いている。ここは我が意を得たり、というのが日蓮仏教の徒である私などの受け止め方だ。「心の師となるとも心を師とせざれ」という日蓮大聖人の簡潔な一文を座右の銘とするものにとって極めて分かりやすい結論であった。こう結論付けるといかにも我田引水的に受け止められるかもしれない。勿論、それを現実のものにできるのは、単に頭で理解するだけではなく、お題目を唱えるとの行為が裏付けとなっていることを知らねばならないのだが。(2017・9・29)

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(227)「賢者は自らを律し、愚者は恣にする」──丹羽宇一郎『死ぬほど読書』を読む

 丹羽宇一郎『死ぬほど読書』──この本を読むかどうか、いささか悩んだ。今さら読書について読むのかよ、いい加減にしときな、との声が我が脳中に去来したからだ。だが結局読む羽目に。一つはタイトルに、今一つは彼が元中国大使だったことに惹かれた。丹羽さんは民主党政権時代に中国の大使になられ、あの「尖閣問題」騒ぎの際に日中間の渦中にあったことは周知のとおり。あまり目立った業績は挙げられなかったとの印象が強いが、帰任後『中国の大問題』『戦争の大問題』など時事的テーマで矢継ぎ早に出版され、今度は読書論。これも『読書の大問題』とでもして、異なった角度で書いてほしかったと思わないでもない。

 この人は昭和14年生まれ。企業人として中々の辣腕家との評が高い。しかも相当の読書家との誉れも高い。民間人として鳴り物入りの大使起用だった。偶々衆議院外務委員会に私が所属していた頃で、赴任される直前に同委理事会メンバーと一緒に懇談した。別れ際に何でもご注文あらばメールください、返事しますとのことだったので、その後の問題発生の最中に送った。しかし、不幸にも、為しのつぶて。お忙しかったのだろうが、返事が欲しかった。

さてこの本を読んでの感想は、特に若い人にはお勧めしたい。読書に関する本を数多読んできた身にとって、期待したのは二つ。一つは死ぬほど読書したという具体的体験論。もう一つはそれをどう身につけられたのかという具体的方法論。残念ながら、どちらも平凡の域を出なかった。尤も、そういうことは、多くの論者によってもう出尽くしている。今も私の記憶に残るのは井上ひさしさんの色鉛筆の使い方や、橋本五郎さんの「二回半読む」というやり方。佐藤優さんの集中的読書の後、一定の時間が経ってからの読み直しなどなど。ただし、丹羽さんが文中、さりげなく触れられたり、あるいは勧める本は歯応えがありそうなものばかり。アレクシス・カレル『人間──この未知なるもの』、横井清『中世民衆の生活文化』、オウィディウス『アルス・アマトリア』、西岡常一『木のいのち木のこころ』、エリック・ホッファー『現代という時代の気質』、『大航海時代叢書』全42巻中の25巻など。私の書棚には勿論ないし、これからの読書計画にも入ってこないに違いない。

読書録に書くにあたって、改めて読み返すと、やはりこのひと、ただ者ではないことが分かる。特に、世に「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」というが、「私は怪しい」と思うとされ、「賢者は自らを律し、愚者は恣(ほしいまま)にする」と言い換えたいとしているくだりは興味深い。「歴史は繰り返す」ことからすると、いかに賢者であっても歴史から学ぶことは難しい、と。平々凡々な私など「どちらも正しい」と思ってしまう。最後に、著者の意向で、この本の印税は「伊藤忠兵衛関連の資料保全のため『滋賀大学経済学部附属史料館』と、中国から日本への私費留学生への奨学金として『公益社団法人日本中国友好協会』に、全額寄付されます」とあった。凄い。これは。さすが名だたる経済人。これまで丹羽さんを斜視に見がちであった私の目からうろこが落ちた。

さて来週からフランス、ドイツ、ベルギーと訪問することは既に前回書いた。実はパリで木寺昌人大使と会うことにしている。一緒に佐藤地ユネスコ大使とも。この二人は私が現職の頃に大変にお世話になり、親しくさせて頂いた。木寺さんは西宮元中国大使が急逝されたあとのリリーフ。フランス大使には横滑りだったので帰任祝いもなく、送別会どころでもなかった。「分断」が懸念される世界にあって、「中華思想」の双璧ともされる中国とフランス両国に通暁するこのひとに、あれこれと訊いてみたい。また、佐藤地さんは、先般「明治日本の産業革命遺産」への記載決定にあたって話題を提供したひとだけに、後日談を聞いてみたい。

【他生のご縁

丹羽宇一郎さんとの出会いはここに書いたように、衆議院外務委員会理事会懇談会の時だけ。メールをいただければ、と言われたからしたのに、返事は来なかったと恨みがましい自分が哀れに思えてきます。恐らく激務でそれどころじゃなかったのでしょう。ないものねだりは私の常ですが、執念深さも加わりそうです。尤も、何を書いたか忘れてしまっているのには我ながら笑えます。

 一方、中国大使ののち、フランス大使に転じた木寺昌人さんは、実にこまめに対応してくれたことを称賛にあたいします。パリに赴いた私の友人たちの大小様々な要望を聞いてくれました。それもこれも、過去の繋がりがなせるわざ以外何ものでもありません。人との交流にあたり自省するところ大です。「人の振り見て我が振り直せ」とは、遠い昔に親から聞いた教えです。

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(226)世界最強の女帝の謎や韓国人の品性を暴く本を読む

今月末にフランス、ドイツへ行く予定を立てている。古くからの友人からのお招きもあり、思い切っていくことにした。その準備のために両国に関係する本を読もうと思い立った。まずはドイツ人の生活に関する本を幾冊も出している評論家の沖幸子さん(フラオグルッペ社長)に訊いた。お勧め本はないか、と。直ちに佐藤伸行『世界最強の女帝メルケルの謎』を挙げてくれた。佐藤氏は追手門学院大教授で、元は時事通信の欧州担当記者だった。90年代にハンブルグやベルリンで取材したとあって滅法ドイツ事情には詳しい。この本の出版は昨年のこと。今までメルケルについては殆ど知らなかった私も一気にひきこまれた。実に面白く読めてドイツを分かった気にさせてくれる。そして何より新聞記者らしく切れ味のいい文章が魅力的だ▼彼女の生い立ちから今に至る人物像が描かれる1~4章までが特にいい。とりわけ「魔女メルケルの父親殺し」がいかにも謎めいている。先日亡くなったコール元首相をはじめとする引き立て役の男たちが次つぎと失脚し、その政治的遺産が転がり込み、本人は肥え太っていく。ドイツにおける不吉なジンクスだというのだが、さてご本人の思いは、どんなもんだろうか。旧東ドイツで育った物理学者出身。父は「赤い牧師」。ださいスカートと髪形を上司から注意されたこととか、笑い上戸にまつわるエピソードやら、二度の結婚など下世話な話題が満載されている。後半は中国、アメリカ、ロシアなどとの外交展開が触れられ、エマニュエル・トッドの「ドイツ帝国が世界を滅ぼす」との過激なフレーズの「謎解き」にもなっている▼次はフランス関係のものに進みたいところだが、残念ながら読み切れておらず、次回まわしに。ところで先日、高校の同期会(十六夜会という、長田高校16回生の集い)で、ある友人からお前の顔は悪いけど韓国の新大統領(文在寅)に似てると言われた。以前に同僚代議士から北朝鮮の金正日総書記(当時)に似てると言われたことがあるから、別に悪くはない。北から南へと多少進歩したかと喜ぶわけにもいかないが、まあいずれにしてもコリア系か(その昔、北大路欣也に似てると言われたのに)と密かに笑った。そんな矢先に、畏友・古田博司筑波大教授から『韓国・韓国人の品性』という本が届いた。3年半前に出版された『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』に新たに、まえがき、第一章を加え、改題・改訂した新版だという。この人は、慶大文学部を出た後、韓国に留学、奥さんが在日韓国人。アジアオープンフォーラムの場で知り合い、懇意になった。朝鮮半島問題に通じた学者というよりも思想家の趣きを近年強めている。さらに大きな存在になられるに違いない。だが、その前にコリア系のテロリストから殺害されるのではないかと本気で心配している▶ともかく過激だ、帯には、韓国人は平気でウソをつく。北も南も見栄っ張り。「卑劣」の意味が理解できない。「法治」もない。あるのは憎悪の反日ナショナリズムだけだ。「助けず、教えず、関わらず」の非韓3原則で対処せよ、北も南もいずれ滅びて半島から逃げ出すなどと、恐ろしいほどの悪口罵詈が露出している。北朝鮮からのミサイル発射騒ぎで、お色直し的緊急出版を迫られたのだろう。まえがきには「日本人は嫌いなものから目をそらす癖がある。いま北朝鮮からミサイルが飛んできても、きっと落ちないだろうと目をそらしている。嫌いなものをみたくないので、どうしても無傷を想定してしまう」とし、日米戦争のすえ、100倍返しで300万人も殺された日本人も「もう歴史から学んでもよい頃だろう」と警告。一方、あとがきでは「筆者の立ち位置は相変わらずブレていない。西洋近代化は善で、ゆえに資本主義も民主主義も善である。それがうまくいかない国々に問題がある」と持論を展開する。私としては、善ではあっても最善とは思えず、資本主義、民主主義のほころびが気になって仕方ない。日本近代化のありように不満と疑問を持つ人間など、彼から見ると、朝鮮半島や中国を知らない”愚かな贅沢もん”というほかないのかもしれない。(2017・9・8)

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(225)日本文明の底流に潜む忘れもの━━斎藤健『転落の歴史に何を見るか』を読む

 栄光から暗黒への歴史つぶさに

官僚がその職務を何らかの理由で離れて後に、あれこれと出版することは珍しくない。勿論、その職務についている間に書く人も外務官僚などには多い。しかし、官僚が現役時代に書いていて、後に政治家に転出したという人はあまりいないように思われる。斎藤健元経済産業大臣、元通産官僚である。この人が書いた『転落の歴史に何を見るか』は並の政治家や評論家らが書いた数多の書物の中で傑出しており、鋭く面白い。21世紀の劈頭に世に出たこの本の存在を知ってはいたが、残念ながら読まずに来た。信頼する同世代の厚生官僚の勧めでその気になった。

 明治維新から今日まで約150年の歴史の捉え方のうち、時代区分をどう区切るかについては諸説あるが、一番ポピュラーなのは「40年間づつの興隆から転落に至る二度の繰り返し」との見方であろう。つまり、維新から40年後の日露戦争の勝利、そして40年後の第二次大戦の敗戦。さらにまた40年後の高度経済成長を経てのバブル絶頂から、2025年の少子高齢社会のピーク(どん底)に至るまでの苦難の流れまで。これは評論家の半藤一利氏の提起によるところが大きいが、斎藤氏はこのうち、日露戦争までの時代からその後の第二次大戦の敗戦までに焦点を絞って分析している。

 副題にあげた「奉天会戦からノモンハン事件へ」という34年間を、対比しつつ事細かに料理しているのだ。同じ日本の陸軍がなにゆえにかくも対照的に栄光から暗黒へと転落していったかを。大胆に短くまとめると、明治の元勲たちはジェネラリストが多かったが、やがて世代が変わり、その後のリーダーにはスペシャリストはいても、ジェネラリストが育たなかったからだ、と結論づけている。国家をはじめあらゆる組織にあって、ジェネラリスト養成のための教育こそが求められるというわけだ。

 求め続けたい「西欧思想の日本化」

 明治という時代を築いてきた先達たちが、欧米列強による植民地化を防ぐべく、必死の努力をしてきたことを認めるのにやぶさかではない。しかし、仮に徳川幕府が「維新」で倒れないまま命脈を保っていたらどうだったか、という歴史のifにもいささか魅力を感じる。勿論、具体的に過去を追うと、たちどころに行き詰ってしまうぐらいの、やわな仮説ではある。だが、徳川の幕臣たちが維新政府の「官賊」に比べていかに優秀だったかなどという歴史的証拠だてやら、長州藩士の会津藩への冷酷無情な仕打ちを思うにつけ、あらぬ妄説とは断じきれぬものを抱く。

 ゆえに、明治の元勲たちを全肯定出来ないのである。そこには、吉田松陰のもとに松下村塾の中から育っていった”テロリスト”まがいの志士たちと、20年の歳月を経て国家経営の中心となっていった伊藤博文や山縣有朋らとの落差を素直に認められないものがあるのだ。つまりは、明治を作っていったものの中に、成功の因も失敗の因も同時に育まれていったはず、という見立てから私は逃れられない。すなわち、明治の元勲たちをジェネラリストとして認めたうえで、その後の誤りの因を、スタートの時点で同時に内在させていたのだとの見方を持つ。

 で、私としては、むしろ明治維新の孕む問題は、文明的観点から大きく言って二つあると考える。一つはギリシャ・ローマ以来の近代ヨーロッパ哲学プラスキリスト教文明という、西欧思想を無批判に受け入れてしまったこと。二つは、表向きには今述べたように外来思想を受容しながら、その実、古代日本いらいの”伝統的宗教哲学”としての国家神道を”天皇の復活”と共に、実質的に蘇らせたことである。前者は、日本文明が一貫して持ち続けてきた外来の思想哲学を日本風にアレンジするという作業を怠ってしまったことを意味する。

 そして、それだけでにとどまらず千数百年の時を経ての熟成した日本思想の伝統をかなぐり捨てて、文字通り単純な”先祖帰り”をしてしまったのである。斎藤健さんの視点は極めてリアルなものに根差しているのに比して、これはあまりにも茫漠としたつかみどころのない空論かもしれない。「西欧思想の日本化」とは果たしてどういうものを指すのか。「西洋の没落」が名実ともに具現化してきた今こそ、懸命に追い求めなければならない魅惑あるテーマだと私には思われる。

【他生のご縁 著作を通じ相互に繋がる】

私がその才能を認め、高く評価してきた斎藤健さんが『77年の興亡』を読んで感想を手紙で送ってきてくれました。公明党以外の現職政治家では初めてのこと。しっかり読んでくれたことに感謝の念を抱きました。

 その手紙には「ウクライナ侵略から見る台湾有事」と題した彼のメルマガから転載された論考が同封されていました。深い分析と共に。考え抜かれた視点が光る内容に感動しました。

 政治家とカネの問題で揺れ動いた時期に経産相として登用されました。これから更なる活躍を望みたい政治家のひとりです。

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(224)ドイツに傾斜しすぎた「国民病」ー『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』などを読む

猛暑の中、今週読み終えたうすい本3冊を。磯田道史さんは今を時めく若い歴史家。テレビの露出度も高く、好感度は高い。最初の頃にかけていたメガネを外し、恐らくはコンタクトにされたと思われるあたりから、注目度は高まる。『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』を神戸の書店で発見。司馬史観をめぐりあれこれ考えを深めている折でもあり、直ちに購入して読む。戦国、幕末、明治、昭和前期を扱った作品を順次取り上げながら、日本の歴史と日本人を見つめようという試みだ。『国盗り物語』『花神』『坂の上の雲』『この国のかたち』などが代表作品として、手際よく料理されており、面白く読める。ご本人が述べているように、本来歴史家が小説家の書いたものを論評することは稀だが、それを敢えてやるところが大胆だ。NHKの『100分で名著』の内容に加筆されたものだが、安易な本づくりのように見え、若干気にかからぬでもない。だが、このところの私の問題意識を刺激してくれたくだりは多い。代表的なものとして「昭和の軍人はドイツを買い被っているけれど、本当のドイツを知っている人はいない。ドイツ傾斜というのが、『一種の国家病』だったと、司馬さんは非常に強い調子で批判しています」を挙げておく。来月ドイツの友人を訪ねる予定にしており、語らいが楽しみだ▼ほぼ月に一回、一般社団法人『安保政策研究会』での懇談会でご一緒するのが柳澤協二さん。元防衛省の幹部で、元内閣官房副長官補だ。つい先ごろ『新・日米安保論』なる鼎談本を出版。ここでも取り上げた。実はその本よりも先立つこと2年。あの安保法制論議で日本中が大騒ぎしている折に、彼が書いたのが『自衛隊の転機』。考え抜かれた論考は大いに刺激となり参考になる。「これを契機に、日本がどういう国でありたいのか、その国家像を前提として、どのように守り、世界に貢献したいのか、数年がかりで、一から議論を始めていく好機が到来した」とされている。彼自身はせっせと議論を仕掛けているが、果たして国民各層は応えているかどうか。この本にも鼎談が付加されており、双方に顔を出しているのが伊勢崎賢治さん。東京外大の教授にして元国連PKOの幹部。しかもトランペット奏者というつわもの。現役の頃に知り合い、懇意にさせて貰ってる。先日、彼から「(私たちの本が)売れない」との「泣き言」があったので、「タイトルが良くないのでは」と述べておいた。『三人よれば安保の知恵』とか『どこに行くのか自衛隊』ぐらいがいいのでは、と▶夏休みとあって、ご多聞に漏れず我が家にも孫が押しかけて来る。「くればうるさい、こなきゃ寂しい孫とこども」というのが通り相場だが、来た時にどう遊び相手をするのかは悩みの種。私らの頃は外であれこれと遊んだり、家の中でも自前の遊びを勝手に考え出したものだが、最近はゲーム全盛で、ちっとも創造性がない。なんてぼやいているだけにもいかぬ。そんなときに姫路の駅中書店で発見したのが、逢沢明『大人のクイズ』。論理力が身につくとサブタイトルにある。こども相手では難しいかと思ってページを繰っていったらさにあらず。結構子ども相手にも使えそうな問題があった。「英語でトラはタイガー、ゾウはエレファント、ではかっぱは?」一生懸命に考えたが分からない。答はレインコートと来るから笑える。また、「歯痛で苦しむ人が毎日、皮膚科に通う理由は?」これはまた歯が立たない。「NEW DOORを並べ替えて、一つの言葉にするとどうなる?」ウーン、これは簡単。などというように楽しめる中身だ。一つひとつに「大人の論理」なる注釈がついており、これがまた渋い。こども相手以外に、どこかで使えるかもなどと、あらぬ方向に想像を巡らせるも、もはや手遅れ感が否めない▼かつて現役の頃に、こういう調子で三題噺風に毎週3冊4冊の本を料理したものだ。『忙中本あり』と銘打って、ブログを書いて発信し、本にもして出版パーティまでやった。今から思えば、若気の至り以外の何ものでもない。老境にいたってやろうとすると、これはなかなか難しい。よくぞまあ、激務の中を続けたものよ、と我がことながら呆れてしまう。(2017・8・24)

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(223)好奇心で溢れかえる美術館ー中野京子『怖い絵』を読む

怖いもの見たさに「怖い絵」展に行ってきた。お盆明けの17日に。夏休み只中とあって、好奇心旺盛な子どもたちと大人たちとで兵庫県立美術館はいっぱい。まず、会場入り口の入場券売り場前が長蛇の列。普通はまずこれで怖い思いをするところだが、当方は、学芸員の資格を持ちこの美術館でボランティアで解説をしている友人のお蔭もあってフリーパス。しかし、場内は想像通り、溢れかえるひとの肩と頭とで、肝心の絵はまともに見えない。じっくり見るのは諦めて、人だかりの少ない絵を見定めてのつまみ食いをするほかなかった。美術館の展示物はなぜ、こうも位置が低いのか。もうあと10センチほどでいいからどうして上に飾らないのか。空白の上層部の壁を見やりながらぼやくことしきりであった▼この絵画展の監修は、怖い絵を語らせて右にでるものはいないと思われる中野京子さん。これまでこの手の本をたくさん出している。文字通り題名そのものの『怖い絵』1~3を私はかねて購入し、読むというよりは折に触れて眺めてきた。今回のことをきっかけに、掲げられている絵に関する記述を再読してみた。まずは、ポーラ・ドラローシュ『レディ・ジェーン・グレイの処刑』。これは何度見ても怖いというか、痛々しい。目隠しをされた可憐な白い肌をした美しく若い女性が、太い鉈で斬首される直前の姿。泣き叫ぶ侍女と介添え役の僧侶と首切り役の男。ああ、嫌だ。中野さんは「当時は斬首は高貴な死であり、絞首されるのは下々の者であった」とさりげない。「せめて女性は別のやり方で」と願う現代人の感覚の間違いを指摘しながら、斬首が一回で成功せずに、何回も何回も繰り返す下手な執行人のケースを淡々と記しているのは怖いの通り越して残酷そのものだ▼次は、ウイリアム・ホガース『ジン横丁』と『ビール街』。かたや、荒廃した吹き溜まりの貧民街で安酒のジンをあおって正体不明になっている人々がひしめき合う。もう一方は、ジョッキ片手にビール腹をさすりながら、女を口説く男たちや仕事に励み絵作に打ち込む姿。この作者は、「羅列の快楽」ともいうべき、絵の中に幾重にも描かれた細部を発見する楽しみを披露する。この場合、ジン横丁がいかに地獄の様であるかを、中野さんは克明に、書き連ねる。ジンでごまかすしかない、落ちぶれてやつれきった女や男の姿の一方で、この時代状況の中で、景気がいいとされる質屋、酒屋、葬儀屋の三職種の有様を丁寧に描く。孫と一緒に見る絵本の「間違い探し」に取り組んでいるかのような錯覚に陥るのはご愛嬌だ▼次はヘンリー・フュースリ『夢魔』。艶めかしい姿で眠りこける女体の上に坐る化け物とカーテンの裾から顔を出す馬。この絵の解説で、中野さんは「眠りはある意味、こま切れの死だ。夜がその黒々とした翼を拡げるたび、幾度も幾度も自我を完全喪失しなくてはならない」と、眠りの持つ恐怖の一面を、妖しくエロティックに表現して強烈なインパクトをもたらす。最近、私も歳を重ねると共に、夜中に目覚めることが多い。「こま切れの死」という表現は実感として身につまされ怖さをそそる。一方、怖い絵展における解説を家で読み直すにつけても、美術館で見ていた子どもたちはどう感じたのか、と気になってしまう。子どもに読ませたくないくだりもあり、そちらの方が親にとっては怖かったかも、と想像してしまう。一緒にいった友人はそういう心配をする私に「近頃の子どもは俺たちの頃よりよほど早熟だから、あまり気にせずともいいのでは」というのだが、さてどうだろうか。(2017・8・18)

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(222)何になるのかより、何をするのかだー上甲晃『人生に無駄な経験などひとつもない』を読む

野田佳彦元首相が民進党幹事長を辞任する一方、前原誠司元外相が代表選挙に出馬するといったニュースに接すると、改めて民進党という政党を構成するメンバーの大きな柱が松下政経塾出身者であることに気づく。故松下幸之助翁の肝いりで作られた「政経塾」は果たして成功したのか、それとも失敗したのか。総理を始めそれなりに優秀な政治家を輩出したということでは当初の狙いは十二分に達成したというべきだろう。しかし、松下翁に見込まれ、かつて塾頭を務めた上甲晃氏(志ネットワーク代表)のその後の闘いを見ていると、どうも違う感じがしてならない。「お前さんたち、何をしてるんだ。大臣になることが目的ではなく、何をするかではなかったのか」との叱声が聞こえてきそうだ▶上甲晃『人生に無駄な経験などひとつもない』を読むといいよ、と薦めてくれたのは前高砂市商工会議所会頭の渡辺健一氏(ソネック相談役)。この人がいかに上甲氏に入れ込んでいるかは、先年姫路に上甲氏率いるネットワークの仲間たちを全国から招いての集会をもたれた時に心底からわかった。「理屈ではない。行動をすることでこの世におけるひとの志が分る」ということが彼らを貫く心意気に違いない。衆議院選挙に私が出るという頃ー今から30年前ーから、渡辺さんには陰に陽に激励を受けてきたが、このひとの思想と行動の軌跡は大いに心震わせられる。「戦争の20世紀」から「平和の21世紀」へとの転換ままならぬ今を生きる人生の伴走者として▶この本から伝わって来るメッセージは、逆境こそ飛躍するチャンスであるとの一事に尽きる。事態は受け止め方次第でどうにでもなるとの信念を持ち、志を高く掲げよとの松下翁の教えを微に入り細に渡り説いている。「難あり」を「有難い」に変えるのも「志」の力だとの言い回しを始めとして全編に筆者の強い意欲がひしひしと迫って来る。思えば、私も50年前から、これとほぼ同じ考え方を学んできた。ここになく、我々にあるのは祈る力である。一念次第でいかなる逆境も乗り越えられると教えられ、また伝えてきた。あらためて共通するものを感じる中で、特定の信仰を持たぬ指導者としての松下翁の凄さを思う▶あとがきで、筆者は①右肩上がりの経済➁資源浪費型社会③お金万能社会④他人依存型社会⑤ふやけた贅沢病ーこの5つときっぱり別れることを提案している。そして➀質的に掘り下げた経営➁資源エネルギー節約型社会③足元の生活をしっかり励む④自分のことは自分でする⑤質実剛健の生き方をするーことへの転換を説いている。現在只今の一瞬においてこうした生き方が日本社会そのものに問われており、志が問われている、と。松下政経塾出身ではない私にも、様々な意味で耳が痛い提言として聞こえてくる。今再びの思いで、大いなる志を掲げ、経験を積み上げようと決意するに至った。(2017・8・11)

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