Monthly Archives: 4月 2014

(25)憂鬱さが増すだけの田原VS西研の哲学対談

田原総一朗ーこの人物のテレビ番組に、私は現役の時に二回ほどでたことがある。その時に一度口喧嘩をした。この人は政治家を怒らせることで番組のトークを面白くさせるとの手法をよく用いるようだが、私の時もそのたぐいで、餌食にされそうになった。こともあろうに放映中に、私に対して「冬柴さん」と、あきらかにわざと呼びかけてみたり、きちっと答えているのに「もっと勉強してきてよ」とか言ったのである。

この自尊心の塊のような私に対して(笑)、である。コマーシャルの時間になって、「あんた!いい加減にしろ!」って、つい怒鳴ってしまった。一応、「ごめんなさい」と彼は頭を下げたが後味の悪さは尾を引いた。以後、彼の番組にはぜひ出てほしいと言われるまで、でないとこころに決めたのだが、そのうちこちらが引退してしまったので、当然ながら声はかからないで、今に至っている。

そういう不幸な出会いだったが、彼の書くものや人とのやりとりは面白く読んだり、見たりしていているのだから、私も勝手なものだ。その田原総一朗氏と哲学者の西研さんとの対談『憂鬱になったら、哲学の出番だ!』(幻冬舎)を読んだ。それこそ田原氏の鋭い切り込みは縦横に見られる。しかし、それに対しての答えがあまりぱっとしない。難解な哲学が分かり易く説かれることを期待するむきには羊頭狗肉だ。成果と言えば、田原さんも人の子、西欧哲学は解らんのだということがはっきりしたことか。結局は西洋哲学はただ難しいだけで、一般人には役立たずだということが改めて浮き彫りになった。憂鬱さはますばかりだという他ない。

ただ一か所だけ私としては、非常に興味深いくだりがあった。それは、田原氏が梅原猛さんの書いた『人類哲学序説』に触れたところだ。私はこの本に大変共鳴しているので、それこそ目を凝らして読んだ。西欧哲学の進歩発展主義の破綻を象徴したのが福島原発事故だとして、近代合理主義と決別するとしている梅原氏の主張を紹介。そのうえで、「梅原猛は東洋の思想を見直して、仏教の天台密教の『草木国土悉皆成仏』という考え方に着目したのです。山川や草木にも仏を見るという日本独自の思想で、ここから独自の人類哲学をつくろうとしています」ーデカルト以後の近代哲学が現代世界において、役に立たないことに気づき、新たな船出をしようとする梅原氏の意気や壮としたい、と私は思っている。

ところが、それに対して西研氏は『哲学は、一人ひとりの経験や感度や考えを出し合いながら『これは確かに大切だよね』ということを確かめ合っていく営みです。そういう風にして普遍的なものを取り出そうとすることが大事なので、それを、特定の世界観で代替してはいけないと思います」と答えるにとどまっている。これは、私には西欧哲学の側の敗北宣言に聞こえる。要するに世界的規模での現代人救済に役立たないがゆえに、確かめ合うなどといったぬるいことを言っているのだと思う。

それに対しての田原氏の最後の切り込みは「デカルトやカントらの哲学はヨーロッパ内では受け入れられたけれど、民族を超えて広がらなかったのではないですか」と言うだけ。西研氏の答も「お互いの経験をもとに考えを出し合って、普遍性を求める哲学の復権をめざしたいと思っているのです」と繰り返すのみ。

これって、結局は西研氏は、西欧哲学を超えるものが東洋の哲学にあるということに目を向けようとしないで、西欧哲学の復権にしがみついているだけのように思われてならない。その辺りをもっと田原氏には切り込んでもらいたかった。

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(24)朝鮮半島に行ったことがないのはなぜか

自慢じゃないけど、私はお隣の国・韓国に行ったことがない。朝鮮半島の問題に関心もあるし、身の回りには在日韓国人の友人も少なくない。またその道の専門家も友人には数多い。前回取り上げた古田博司さん以上に付き合いの古いのが小此木政夫さんだ。何と言っても彼とは昭和40年の慶大入学以来だ。同級生だったのである。彼は押しも押されぬ韓国問題の権威である。他にも北朝鮮事情に明るい伊豆見元さんとは中嶋嶺雄先生肝いりの「アジア・オープンフォーラム」でずっとご一緒した仲である。他にも挙げればきりがないほどなのに、どういうわけか韓国訪問に縁がない。

そのくせ韓国、朝鮮関連の本好きで読む。つい先日も呉善花さんの『侮日論』(文春新書)を読み終えた。尊敬する大先輩から「面白い。きわめて参考になる」と勧められたからだが、大いに啓発されるところもあったが、疑問に思うところも少なからずあった。この大先輩は、韓国のテレビ映画が大好きなひとで、「イサン」、「チュモン」などいわゆる歴史ものを絶賛されていた。しかし、私にはどうも馴染まない。朝鮮民族礼賛の雰囲気に嫌味を感じ、その学芸会的展開におぞましさすら感じてしまう。

あらためて気づかされ啓発された点は、韓国人には日本民族を蔑視する傾向が非常に強く、最近になって反日になったのではないということ。ましてや植民地支配がその起源ではなく、太古の昔から日本人を侮ってきた、というくだり。一方、疑問に思った最大の点は、「民族(朝鮮)そのものを一段低いものとみなす蔑視の感覚は、私の知る限り世界でも日本人がもっとも薄い」として、「他民族への蔑視の感覚ならば、韓国人の方がいっそう強く、世界的にもかなり強い方だ」というところだ。このくだりを読んで、むしろ逆ではないか、と思ってしまう。少なくとも私自身は長く韓国人や朝鮮人を蔑視してきたし、そうだからこそ当のその国に行くことは憚られる思いに支配されてきたのである。

いままで、小此木、古田、伊豆見の各氏(一緒に並べると怒られそうだが)を始め数多い韓国、朝鮮通の友人たちに、その韓国観や朝鮮人観を聞いてきた。それぞれニュアンスの違いはあれ、庶民としての朝鮮民族、韓国人は気のいい人たちであるという点は共通しているように感じた。表向きと実際とは大いに違うのだとも。だというなら、一度一緒に連れて行ってくれと言ってきたが、未だに実現していない。天邪鬼な私だからこそ、日韓関係が最悪と言われる今日、この辺りをそろそろ解決する時ではないかと思い始めている。

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(23)朝鮮半島の仙人が解き明かす韓国の真実 ──古田博司

古田博司ー私には学者の友人がそこそこいるが、この人はそんな中でも飛び切り親しい人の部類に入る。筑波大学教授。現代日本における韓国研究の第一人者と言っていい。今まで、『東アジアの思想風景』や『東アジ・イデオロギーを超えて』『日本文明圏の覚醒』などの本を、私の読書録でも紹介してきた。韓国や儒教圏にまつわる知的蓄積たるや大変なものがある。元をただせば、故中嶋嶺雄先生のご紹介で知り合った仲なので、広い意味での同門と言えようかと、生意気にも勝手に私は位置付けている。上京した際に、酒を酌み交わしながらの対話は、古代の朝鮮半島に住む仙人と遭遇したかのようで、まことに時空を超えて楽しい。

先に挙げた本を読まれずとも、タイトルを見ただけでもお分かりのように、彼はかなり硬派の難しいことを論じる。かねてから私は、「難しいことを論じる力がおありなのはよーく分かった。これからは、一般にもっと読まれるような分かり易い本を書いてほしい」と偉そうに言い続けてきた。勿論、今までも『悲しみに笑う韓国人』だとか『朝鮮民族を読み解く』などといった平易なタッチの本もある。しかしながらやはり持ち前の知性が邪魔をして、庶民には馴染まない本をお書きになる傾向がある。つい先年の『「紙の本」はかく語りき』など、その典型だろう。好きなファンにとっては堪らない魅力があるが、もっともっと多くの人に、この人のものを読ませたいと思う者にとっては、いささか惜しいような気がしてきた。

そんな思いを一気に跳ね飛ばすメッチャ面白い本がつい先ごろ出た。『醜いが、眼をそらすな、隣国・韓国!』という変なタイトルの本がそれである。「韓国人は『卑劣』ということを、理解できない。なぜなら、ほとんどの国民が卑劣だからだ!」などといったことがガンガン出て来る。その身に危険が及ぶのではないか、と他人事ながら心配してあげたくなる凄い内容だ。もっとも、産経新聞紙上での『正論』に、時折書いておられるような、洞察力に富む国際政治の現状への切り口も散見されるから、「誹謗・中傷」的な言辞に終始しているわけではない。易しすぎるとも言える論じ方で、深い韓国理解が得られる「文科省推薦の良書」かもしれない。

ただ、文句がないわけではない。2刷りのものでは、間違い記述や誤植が若干目立つ。特に、昨年亡くなられるまで秋田国際教養大学学長だった中嶋先生を「前秋田教育大学学長」と書くなどもってのほか。他にも初歩的ミスがあって、それを探す楽しみも。これはひたすらに出版社のせいだろう。まあ、著者としてはそんなことは気にせずに、これからも分かり易い本を書いてほしい。雑誌に書かれたものから類推して、近く古田流「西洋哲学入門」といった本が出版されるのではないかと私は睨んでいる。手ぐすね引きながら、固唾を吞んで期待しているところだ。

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