Monthly Archives: 7月 2018

社会構造の劇的変化にどう対処するかー内田樹 編『人口減少社会の未来学』を読む

世界の最先端を切って急速に進む日本の人口減少。これからの社会構造が劇的な変化を強いられることは必至だ。こうした起こり得る未来にどう対処するか。編集者の依頼を受けた思想家の内田樹さんが10数人の論者たちに寄稿文を依頼して、出来上がった本が『人口減少社会の未来学』である。答えたひとは10人。それぞれに強いインパクトを持った中身で、極めて面白い論考集となっている。もちろんくだらないと思われるものもある。しかし、概ね目から鱗の秀逸なものが多かった。私の選んだベスト3(❶注目される中身❷平凡な結論だが無視できないもの❸日本には馴染まぬ奇抜な提案)を挙げ、明日の日本を考えるよすがとしたい■まず、その前に、内田氏の序論について。雇用環境の劇的な変化による破局的事態を回避するための手立てを考えており、興味深い。就職先をどうする、との若者たちの関心事について、銀行、新聞、テレビなどこれまで人気のあった業種は雇用消失リスクが高いとする一方、「看護介護という対人サービスを含む『高齢者ビジネス』」が活気づくという見通しを提起している。結論として、最後に生き残るシステムとは、「人間がそこにいて『生気』を備給しているシステム」だ、と。こう抽出してみると、意外に内田氏らしからぬ平凡な感じが否めない。本題に入る。最も刺激を受けたのは、劇作家・平田オリザ氏の「若い女性に好まれない自治体は滅びる」である。失業者や生活保護世帯が平日の昼間に映画館や劇場に来たら、「社会に繋がってくれてありがとう」と皆がいえる社会にしていくとの考え方の転換を強調している。つまり、「文化による社会包摂」のすすめである。これには斬新な響きを受けた。岡山県奈義町の子育て支援、兵庫県豊岡市の文化政策の展開には大いに惹きつけられた■次に経済学者の井上智洋氏の「頭脳資本主義の到来」。科学技術の研究という最も付加価値を生むクリエイティブな営みに、今の日本は時間もお金も費やさなくなっている、と強調する。科学技術立国としてやっていけるかどうかの瀬戸際に立たされているとの指摘は、改めて衝撃を受ける。無価値な労働に時間を費やす例として、中学校での教員の部活動と書類作成の激増、大学における研究時間の激減(その一方での教育準備の時間増)を具体的に挙げているのは分かりやすい。AIが進歩し普及すればするほど、知力を重視する必要があるが、あらゆる場面でそうなっていないとの指摘である。これは、珍しいものでは全くないが、無視できない重みを感じてしまう■最後に、文筆家の平川克美氏の「人口減少がもたらすモラル大転換の時代」。晩婚化の流れを早婚化に戻すことが難しいのなら、少子化対策として可能な政策は「結婚していなくとも子どもが産める環境を作り出すこと以外にはない」と断定している。フランスやスウエーデンで、法律婚で生まれた子どもでなくとも、同等の法的保護や社会的信用が与えられることを挙げ、日本での子育て支援や育児給付金などの対症療法的な対策では人口減少に歯止めはかからない、と強調。「社会構造(家族構成)や、それを支えているモラルの変更こそが、その鍵になる」という。「人口減少社会における社会デザインとは、無縁の世界に有縁の場を設営してゆくこと以外にはない。(中略) 都市部の中に、家族に変わり得る共生のための場所を作り出していくこと。そして人類史的な相互扶助のモラルを再構築してゆくこと」だ、と。これって、まるでSFのごとく聞こえる。儒教的社会にどっぷり浸かった日本人としては、いかにも荒唐無稽な提案に見ええてしまうのではないか。(2018-7-27)

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これが明治維新の実態だー奈倉哲三ら編『戊辰戦争の新視点』を読む

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不安定の安定か、安定の不安定かー三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む

近代とは何かと問われたら、日本の場合は欧米の文明の影響を受けた明治以降の時代と答える。辞書風には、封建時代の人間性無視、非合理性を廃し、個人の生活・思想における自由を重んじ、設備の機能化、エネルギーの節約を図るようにすることを近代化という、と。では欧米のつまりヨーロッパの近代とは何であったか。一言でいえば、「議論による統治」の確立であり、慣習の支配で拘束された自由と、停滞した独創性を解放しようとするのが、近代の歴史的意味である、と。新聞の書評で見つけた、三谷太一郎『日本の近代とは何であったかー問題視的考察』は、ちょうど今の私の問題意識と一致して、読む気を誘ってくれた■著者の三谷さんは全く存じあげない方だが、本文もさることながら、あとがきを読んで大いに好感を持つことができた。人生そのものを学問に費やし、その間に「達成した事業は余りにも貧しく、誇るに足るようなものではありません」と謙虚に述べたうえで、青春期と老年期の学問の一体性に言及。若き日に成し遂げた仕事の実績、領域は年老いても越えられないものだ、と。結局は、〝処女作に回帰する〝のだということを言おうとされている。もっと率直な言い方をさせてもらうと、偉そうに各論を展開するより、初心に立ち返って、総論にきちっと立ち向かうことが大事だよと、いうことだろう。で、三谷さんは、英国のジャーナリストであるウォルター・バジョットの考察に向き合い、極めて真面目にヨーロッパ近代から日本のそれがどんなものであったかを説き起こしてくれている。バジョットはマルクスと同時代人だ、と始めて知った。片やヨーロッパ近代における経済学、もう一方は政治学を模索した新しいモデルを打ち立てたというわけだ。そうくればますます読まねば、という気になってしまった■明治期における政党政治から始まって、貿易、植民地化、天皇制と4つの切り口で日本近代の成り立ちに迫った著者の視点は鋭い。一つは、「議論による統治」の日本的形態は、明治維新期から今に至るそれへの批判や非難が実質を作り上げ、不安定の安定を作ってきたという。今の安倍政治が危なっかしいものの何とか持ってるように見えるのもその伝統ゆえかもしれない。二つは、日本の資本主義の全ての機能が集中しているといってよい原発の事故について、日本の近代化路線そのものを挫折させた、と。これもまた大いに共感する。三つは、現在のヨーロッパにおける難民問題は、植民地帝国の負の遺産であり、日本にも形を変えて潜在的に存在する、と。在日コリアンから沖縄の差別に至る問題が想起させられる。四つは、ヨーロッパにおける神の存在と日本の天皇との類似性である。明治期の設計者たちは天皇を単に立憲君主に止めず、皇祖皇宗と一体化した道徳の立法者として擁立したのは、神の代替物を探した結果だというわけである■三谷さんは、日本の一国近代化路線の失敗のシンボルとして、東日本大震災による原発事故を位置づける。富国強兵から強兵なき富国路線の挫折だというわけである。そして今後日本にとって必要なことは、「かつて日本近代化を支えた社会的基盤を、様々の具体的な国際的課題の解決を目指す国際的共同体に置き、その組織化を通じて、グローバルな規模で近代化路線を再構築することではないか」という。そして、そのためには「アジアに対する対外平和の拡大と国家を超えた社会のための教育が不可欠」だという。で、そうした自身の目指す多国間秩序構築のモデルとして、1921年暮れから22年初めに開かれたワシントン会議をあげ、そこから導かれた諸条約や諸決議を伴う国際政治体制としてのワシントン体制に学ぼうというのである。この問題提起をどう捉えるか。着眼点は悪くないが、構成要員としての各国の、政治的佇まいの様変わりぶりが大いに気になるところだ。ただ、先達の遺言として銘記しておきたいとは思う。(2018-7-15)

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どこかで間違ったことを思い知るー柳瀬尚紀『ことばと遊び、言葉を学ぶ』を読む

作家・筒井康隆氏による「現代語裏辞典」では、「凝り性」の項には、「柳瀬尚紀」とだけあるとのこと。先に紹介した『日本語は天才である』を読んだ際にも、つくづくこの人こそ「日本語の天才である」と思ったものだ。言葉というものに凝りに凝ってこだわった人生を歩んだ人だ。残念なことに2年前の7月30日に鬼籍の人となられた。その日本語の達人が中学校で特別に授業をした記録が、河出書房新社の尽力で、そのまんま本になった。これは日本語と英語の授業ともなっていて、実に面白くためになる。と同時に、いったい自分はどこで間違ってしまったのか、と深い反省に陥らせられる■ここで収録されている授業は、長浜市立西中学校、久留米大学附設中学校、島根県美郷町立邑智中学校の三校とPTA対象の番外編。色々と興味をそそられる場面が数多いが、一つだけ例を挙げる。「車で」は英語でなんていうか?「by car」。では、「彼の車で」は?「by his car」と答える生徒たち。実はこれ、正解は「in his car」。ここのやり取りは実にうまい。「人間は間違えて覚えるんです。どんどん間違えて、そして覚えていく。英語にかぎらず、日本語でも、どんどん間違ってかまわない。間違えて覚えるんだという自信をもってください」この授業を受けた中学生たちは宝物を掴んだに違いない■柳瀬さんはこうした授業の中で、分からない言葉と出会ったら、辞書を引くという最も基本的なことを強調。驚くべき体験を披露している。小さな国語辞典を丸暗記したというのだ。国語辞典一冊が真っ黒になって「完全にぶち壊れ」るまで読んだという。私なんか、幾たびか挑戦したものの、ほんの数十ページで挫折してしまった。日本語では『新明解国語辞典』(三省堂)を推奨しているが、なるほどこの本(辞典と呼ばずに)は一味違う。「凡人」の定義には唸ってしまう。たんに平凡な人間ではなくて、「自らを高める努力を怠ったり功名心を持ち合わせなかったりして、他に対する影響力が皆無のまま一生を終える人」ーこう読んで、俺は凡人ではないな、とほくそ笑むと、そのすぐあとに、「俗人」の定義が。「それにしても世の中には俗人になりたがるのが多いですね」と。ギャフンとなる他ない■英語の辞書では、齋藤秀三郎の『熟語本位 英和中辞典』(岩波書店)を、「全ページ赤鉛筆の線だらけに」して、「ヨレヨレになり、手垢にまみれ、くさくなるほど読んだ」と。これは私も高校時代に手元に置いた。しかし、今ではどこへ行ったかわからない。意欲を燃やしてページを繰った日は遠い昔のかなたに散ってしまっている。この授業は、私のようなかつての真面目少年がやがていつの間にか、俗人に成り果てた経緯を思い起こさせる。改めて「少年老いやすく学なりがたし」を突きつけられる、実に罪深い本である。そのくせ、「『ロアルド・ダール コレクション』がめっちゃおもしろい」とか「筆者が手がけた『完訳 ナンセンスの絵本』」やら、『ガリヴァー旅行記』を何度目かの通読をしたといったくだりに出くわすと、ついメモってしまう。「今更」っていう気持ちが起こるが、その都度、「生きてる限りは青春だ」と我が身に言い聞かせて。尤も、青春って、「[夢・野心に満ち、疲れを知らぬ〕若い時代」なんだけど。(2018-7-7 )

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