志村氏は「死事期」からのブログの終りの方で、友人たちやその縁者の死の在り様を紹介しており、興味深い。表面上は「孤立死」とか「孤独死」と、他人からは見られるかも知れないが、それはその人の生きてる際の姿を勘案していないからであって、実際は「孤高死」と呼びたいものがあるというのである。生前の毅然とした生き様が自ずとそうさせるものだ、と。加えて自身の母親の死について多くを語っている。要約しよう。彼の母親は94歳で亡くなるまで35年近く「独居」を貫いたが、90歳を過ぎて倒れてからは、不本意ながら「延命治療」によって「飼育室」生活を余儀なくされ、「苦悩に満ちた死に方」をしてしまった。「どうすれば『自分の死』に上手い『折り合い』をつけられるか。そればかりを考えていた、リアリストの母だった」のに、と。母上を「死に方」の「反面教師」としたいとする彼の切なる思いがひしひしと伝わって来る▼ここで、私自身も、母の死が想い起こされる。1917年(大正6年)2月生まれ。生きてれば99歳のはずだが、59歳、還暦を待たずに死んだ。死因は胃がんだった。父が懸命の看病を尽くした。病院のベッドわきに布団を敷き、お風呂にも自ら入れてやった。医師から半年の余命と宣言を受けたときに、父が私に云った言葉が忘れられない。「おい、お母さんが川の向うにドンドン流されていく。どないしたらええんや」と。私は「信仰するしかないやろ。ご本尊を拝もう」と入会を勧めた。「拝めば治るか」「必ず治るよ」「それなら入る。治らんかったらやめるぞ」ー父子の会話だ。時に私は32歳だった。意、天に通ぜず、母は医者の見立て通りに死んだ。父の退転を恐れた。ところが、父は違った。「懸命にお母さんの回復を祈ってくれた近所の学会員の皆さんに申し訳ない」「(お香典やら弔電を下さった)池田先生の真心にもこたえたい」と信仰を続けるといったのだ。「どうせ、わしが死んでもお前ら姉弟4人(私が入会以来、全ていざなった)は法華経を信じて題目を唱えるにきまっとる。そんなら、わしも生きとる間に(浄土真宗から)宗旨替えをする」と明言した。時に父は66歳▼その父の歳をもう大きく超えた。これから先、仮に我が妻に先立たれるようなことになったら、父が母にしたような必死の世話が出来るかどうか。心もとなくあまり自信はない。がんで苦しんで天寿を全うできなかった母の悔しさと、それを機に13年間の信仰を続け、時に「独居」したり、時に私や姉弟と同居して暮らし、文字通り「孤高死」を遂げ、79歳で逝った父。これが私の身近な死のダブル・イメージである。死んだら「空(くう)」に溶け込み、大宇宙の中に融合する。そして新たな機縁を得て、新たな命としてこの世に生を受ける。と同時に、天空のどこかで私を見てくれている父母と、やがて自分が死んだら再会出来る喜びを期待している。このようなあたかも矛盾した気分が偽らざる私の今の境涯である▼「大衆の中で語り、大衆の中で闘い、大衆の中で死んでゆけ」との命題を公明党の議員に師匠は与えられた。死しても大衆と遊離するな、立場はどう変われどもどこまでも大衆の代表だということを忘れるな、という厳しい言葉だと受け止めている。間違っても自分中心の考えにとらわれてはならない。貴族趣味や贅沢三昧な暮らしに憧れるな、と。政治家として、お世話になったあのひと、このひとを始め、市井のなかで必死に暮らす人々の、平和な、安全で、安心な生活を構築するために、身を粉にしてお世話し続けよ、と。これが自分自身に与えられた使命ー文字通りいのちの使い方であると、戒め続けている。(この章終り。以下続く=2016・10・31)