『日本人の忘れもの』には、一点の非の打ちどころのない本と思っているが、一か所だけ気になるところがある。「なぜ現代人は肉体にこだわって肉体の消滅ばかり気にするのか。肉体の若さを賛美し若さを価値とする社会ー現代日本社会はもっともその傾向が強いのだが、そんな社会は未成熟であり、中国のように老人を尊重する社会は成熟した文化を持つ」という「いのち」の章のくだりだ。中国のように老人を尊重する社会との表現は、伝統的なむかしの中国社会ではないのか。現代日本社会と現代中国社会を比べて、日本の方が老人をより大切にしない国だと断じる根拠に乏しいのではないかと思えてならない。
たまたま中西進先生が淡路島に来られて講演される機会があった。早速、直接確かめてみた。「現代日本に忘れものが多いのはご指摘の通りですが、中国と比較されるときは、伝統中国とではありませんよね」と。「当然です」ときっぱり。続けて、今の中国が尖閣列島上空の空域を勝手に自国の防空識別圏内に組み入れて、恬として恥じないのは全くとんでもない、と思いますとの趣旨の発言を明白にされた。大いに安心した。では、と私は言いかけたが、あまり重箱の隅をつつくのはいかがかとの自制の心が働き、それ以上は触れずに、「そうです、今の中国は全くもって傲慢無礼です」、というに留めた。
第二巻第二章の自然についての指摘はまさしくめくるめく思いがする。「みず」では、日本人は水で身体を削ったのだ、とみそぎの意味に深くこだわる。「あめ」では、春雨は下から降って、文字通り包まれるものだ、と。夏の長雨のさみだれは、さ乱れで、人間の判断を紛らわさせるもの、として源氏物語の雨夜の品定めを例にあげる。晩秋から初冬にかけてふるしぐれは、山の命に眠りを与えるもので、人間もしぐれの中で命を自然に戻すという。
「かぜ」では、故池田弥三郎氏との会話を紹介。堀辰雄の『風立ちぬ』の冒頭のポール・ヴァレリーの詩を引用して、「風立ちぬ。いざ生きめやも」の季節はいつか?秋だと思いがちだが、実は夏だと。また、生きめやもは、原詩ではいきなければならないとなってるのに、堀の翻訳は死のうという意味になっており、これは間違いだと。ここから、日本人にとり風といえば秋を知る道具であった、と風に心を通わせてきた流れを説く。
また、「はな」ではさくらは散り際がよく、死に際がいいものとしての譬えに用いられてきたが、正確ではないと言い切る。さくらは落花はするが、萎れない。花の死とは萎れることだから、さくらは、死にはしない、のだと。なるほど、そういう見方もあるのか、と感心するばかり。一つひとつ覚えて使いこみたい。