思想家の西部邁さんが亡くなって二か月ほどが経つ。生前に全く接点がなかった人ではあるが、妙に気にかかる人ではあった。とはいえ、彼のものは我が書棚に一冊もない。その思想があまりにラディカル過ぎてついていけそうにないというのが正直な理由だった。そこへ「自死」をされたということを知った。急に読みたくなった。数多の作品の中から『保守の真髄』を選んだ。4章に10節づつ、全部で40節。右手が頸椎摩滅と腱鞘炎の合併症からきた激しい神経痛のために使えず、口述筆記で娘さんの世話になったと冒頭に断りがある。ほぼ遺言風のものであり、胸打たれた。思想の中身はともかく、その生き方はまことに慄然としており、ぬるま湯につかったような生き方をしてきたとの自覚がある身にとって、大いに考えさせられる■ほぼ10歳年下で、若き日にしばしば語り合った後輩の佐伯啓思氏(京都大名誉教授)の「追悼文」(朝日新聞1・25付け)が読ませた。「お前は何を信条にして生きているのか、それを実践しているのか」との「生への覚悟」を常に問いかけられた、と。西部氏は「社会に蔓延する偽善や欺瞞の言説に我慢がならなかった」し、「過敏といってよいほどに繊細な感覚と激しい感情」と「冷めきったような理性と論理」の持ち主だった。であるがゆえに、「決まりきったような党派的意見や個人的な情緒の表出をもっとも嫌っておられた」。この辺りの言動のスタイルは、西部さんとは4歳上の故市川雄一公明党書記長と通ずるものがある。佐伯さんとは4歳ほど上になる私に、市川さんは常に政治家は「何になろうと思うな。何をするかだ」と問いかけられた。そして、透徹した論理展開のもとに、政治家としてなすべきことに果敢に挑戦して足跡を残された。後輩たちには、かりものでなく自分の頭で考えることを常に求められた。知ったかぶりを極度に嫌い、少々的外れでも自分の意見を持つものには耳を傾けた。彼我の差(並行的ではなく斜交い的に)は質的かつ量的に違うものであることを分りつつ、束の間敢えて対比して見たい気になってしまう■西部さんのかねてからの「改憲論」や「核武装論」そして「反米自立論」が、私をしてその作品群を遠ざけた直接の原因ではあるが、ここで語られる「文明に霜が下り雪が降るとき」や「民主主義は白魔術」での要旨には、激しい共感を覚える。とりわけ「近代化の宿痾に食い荒らされたこの列島」の節での「模流時代に喉元まで浸かってきた」が、今やその水位は「頭頂にまで達してしまっている」というところなどには。世の中に無視されてきた彼の予測した事態が今頃になって、重しがとれた湯の中の板のように浮かび上がってきたという他ない。ただ、民主主義批判の在り様においても西部さんのそれはあまりにも苛烈であるがゆえに人々の賛同を得られなかったように思えてならない。佐伯さんが同じことを言ってもその表現が極めてソフトであることと対比されよう■この本の最終節は更に共感を呼ぶ。「人生の最大限綱領は、一人の良い女、一人の良い友、一冊の良い書物そして一個の良い思い出」とのG・K・チェスタトン(イギリスの作家)の言葉を引いているくだりである。「世界社会主義革命」を呼号する輩が横行している時に皮肉を込めて述べたものだ。西部さん自身はしばしば若者にこの言葉を語りかけた。そして難しさの順番は、思い出、友人、女性、書物の順だとする。その理由は(戦争のような)死活の場面を共有することが少なくなったからだ、と。「死を覚悟した勇気」を発揮する場面が今はないと言いたいのだ。最後に、彼が「病院死と自裁死のいずれをとるか」を問いかけ、後者を選んだ過程は深く重い。かつて厚生労働省で仕事をした際に、新たな医療保険制度に「後期高齢者」との名称を冠することにした。死をどう迎えるかの準備として、75歳を私たちは区切りとしたのである。世間では不興を買ったものだが、辻事務次官(当時)始め、当事者のひとりであった私は動じるところはなかった。「自裁死」を選ぶつもりは今の私にはない。だが、「病院死」も選びたくない。ではどうするのか。「自宅死」か。誰に看取ってもらうのか。こう考えると俄かに答は出てこない。考え続けている間は死なないだろうとの錯覚に身を委ねているだけかもしれない。思想的信条の相違を離れて、最終節は今に生きるすべての人が考えるべき材料が提起されている。他の彼の主張とほぼ同様に無視されてしまうのは、あまりにももったいない。(2018・3・18)