「つくる」と「なる」との大きな違い (7)

古事記の冒頭には、国生みの神として知られるイザナギ(伊弉諾)とイザナミ(伊弉冉)の兄妹神が登場します。この二人の神と深い関わりを持つのが淡路島とその周辺の小さな島々です。一つは、この二神によって地上に最初に出現した土地としてのオノコロ島と、今一つはこの二神が最初に生んだ子としてのアハヂノホノサワケ島です。後者が淡路島を意味することは歴然としています。前者のオノコロ島については、「海と泥の混じる塩をコヲロコヲロと掻き回し、掻き鳴らして引き上げた。その時にしたたり落ちた塩が累(かさ)なり積りに積もって島になった」とされているだけで、具体的にどの島をさすかは判然としません。

周辺に存在する島々、というよりはその島の近辺の人々は、我が地域のこの島こそオノコロ島だと主張して譲らないのです。有力なのは南あわじ市にある沼島(ぬしま)。対抗馬は淡路市の岩屋にある絵島です。沼島は上空から見ると、勾玉(まがたま)の形をしているように見えます。ここには高さが30mもある奇岩・上立神岩があり、イザナギとイザナミとが穀物豊穣と子宝に恵まれるようにと、左と右に分かれて廻って愛を交歓したとする「天の御柱」のイメージにぴったりです。他方、絵島は砂岩層の小島で、岩肌の浸食模様はなかなかのもので、一見の価値ありとされています。 日本の神話をめぐっては、出雲(島根)、高天原(宮崎)の二つに比べて、淡路島は今一歩遅れているというか、目立たないのではないかとの不満が兵庫県ゆかりのものたちにないわけではありません。最初に生み出された島として、もっと有名になっていいのに、というわけです。

先日私は、淡路島の洲本市にある国生み協会に行って、関係者の皆さんとあれこれ意見交換してきました。淡路島大好き人間を自称する友人たちと一緒に。古事記には、イザナギとイザナミは淡路島を生んだあと、イヨノフタナの島を生むとありますが、それは体が一つながら面が四つあり、それぞれ伊予、讃岐、粟(阿波)、土左と名指しされています。明らかに四国を意味しているわけです。この海域は本当に夢とロマンを掻き立ててくれる素晴らしい自然文化遺産です。私事に及びますが、高校の卒業旅行で、船で神戸港から瀬戸内海の小島の群れを縫いながら航海しました。このことは生涯の宝の思い出として忘れられません。エーゲ海やカリブ海に勝るとも劣らぬ絶品の風景だと確信します。これを世界中の観光客に見せずして、日本のどこを見せるのかとさえ思います。その際に、淡路島を起点にして大阪湾から播磨灘を経て瀬戸内海へと広がって形成されている古事記の物語を活用したい、との熱い思いがあるのです。

少し、余談にそれてしまいました。本論に戻します。古事記における国生み神話を読み進めるなかで、興味深いのは前回にも触れましたが、「なり出た」との表現です。「なにもなかったのじゃ。言葉でいいあらわせるものは、なにも」との印象深い出だしで、「天と地がはじめて姿を見せた、その時にの、高天の原に成り出た神の御名は、アメノミナカヌシじゃ。つぎにタカミムスヒ、つぎにカムムスヒが成り出たのじゃ」と続きます。イザナギとイザナミが神々を生むということについては、文字通り「お生みになる」との表現が使われています。しかし、もう一方で、「その病の苦しみの中で、イザナミのたぐり(嘔吐した、その吐瀉物)からなり出た」とか「糞からなり出た」や「ゆまり(おしっこ)からなり出た」などといういささか驚くべき言い回しが頻出するのです。「ひとは草である」との発想と類似したものを感じさせます。

この「なり出る」の「なる」との表現に注目したのが思想家の丸山眞男氏です。丸山さんは世界の創生神話には、「うむ」ということ以外に、「つくる」と「なる」との二つの発想(合計三つ)があると『歴史意識の古層』という論文で指摘しました。西欧社会つまり キリスト教的世界においては、「無」から創造主が「つくる」という行為を経て、「有」を生み出します。一方、古事記という日本の神話にあっては、創造主といった存在を介するのではなく、「自然がおのずからそのようになった」ことだとして、「なる」といいます。つまりは、古代の日本人にとって、この宇宙空間というものは、誰かがつくったものでも、生み出したのでもなく、自然と今あるすがたのようになって出てきたというのです。

「なり出る」という表現が醸し出すものを考えるときに、仏教での「空(くう)」に思いを致さざるをえません。有るか無いかで、この世における存在を論じるのではなくて、もうひとつ有るといえばあるけれども、無いと言われればない。つまり、目には見えずとも、条件が整い、環境が許せば、そこから自然に発生することを可能にする概念を「空」 と捉えるわけです。このあたり、「有るか、無いか」との、専ら二者択一的捉え方がなされるキリスト教的世界観とまったく違うところです。この仏教的世界観の基本を50年ほど前に知っての私の感動は、目からうろこなどということでは言い表せない、とてつもなく大きいものでした。

つまり、古事記の冒頭で使われている、「なり出る」という表現は、まさに仏教でいうところの空の概念を導入すると、ストンと落ちるというのが実際ではないでしょうか。 日本独自のものと見えても、インドから中国を経て日本に伝わってきた仏教の強い影響を受けていることが、このことでも分かるわけです。

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