映画『柘榴坂の仇討』を観た感想はすでに別のブログに書いた(「後の祭り 回走記」)が、直ちに小説も読んでみた。こちらは、浅田次郎『五郎治殿御始末』の中に収録されている。同名のもの二つの他に四つ、併せて六つの短編小説から構成されており、それぞれ三十頁あまりなので読みやすかった。映像が脳裏に残っているのを後追いしたせいもあってか、相乗効果が発揮されてすべてが謎解きされたかのようにクリアになった。映画でも小説でも一度観ただけであれこれ批評するのはおこがましいなどと、殊勝な気分にさえなってしまったのである。映画では「静かで暗すぎる」印象が強いと思った。確かにそうなのだが、小説は短い分逆に凛とした味が強烈に伝わってきて感動が深い。短いものを含まらせ長くすると、どうしても余計なものが入ってきて、大味になるということか。ともあれ両方を併せて鑑賞するのが良いと分かった▼浅田さんはこの六編の短編小説で、いずれも江戸から明治へと世の中が激変する中で取り残される側の悲しい物語りを思いれたっぷりに示してくれている。260年もの間続いた時代が変わるってことは、普通の人間にとってはおよそ驚天動地のことだったろう。髷と散切り頭が交錯し、着物と洋服姿が行き交うのは、表面的な変化であって、何よりも懐具合が違った。とりわけ徳川の側にいたさむらいたちは、まさに塗炭の苦しみに直面したということが、この短編集で嫌というほど分かった。幕末という時代の転換期がこれほどリアルに生活実感を漲らせて迫ってくる小説はなかなかお目にかからないだけに貴重な体験をすることが出来た▼『五郎治殿御始末』は、曾祖父と曾孫の間の秘められた話が展開される。「わしは、お前の年頃にいちど死に損なった」と87歳の翁が8歳ほどの少年に語っていく。「いかな覚悟の戦でも、先駆ける者はさほど怖い思いはせぬ。怖いのは後に続く者だ」「人に先んじて死に向き合えば、怖い思いをしなくてすむ。そして生きるか死ぬかは、人間が決めることではない」ー生と死にかんするこのあたりのしゃべり口調は、あたかもわが爺さんが今の世に出てきて諭してくれているようでリアルに迫ってくる▼この小説を読んでいて印象に残ったのは、自らの苦労談を語ることの意味だ。「たとえ血を分けた子や孫にも身の上話など語るべきではない。人にはそれぞれの苦労があり、誰に語ったところでわかってもらえるものではないからの」「苦労は忘れてゆかねばならぬ。頭が忘れ、体が覚えておればよい。苦労人とは、そういう人のことだよ」「語ればいつまでも忘られぬ。語らねば忘れてしまう」ーそう。著者は、苦労知らずのまま歳を取ったものに限って、僅かばかりの苦労談を語りたがると言いたいのだろう。そんなものでも若い者は聴いたほうがいい。体が忘れてしまい、頭が覚えているだけの話であっても、聴く側にとっては大いに体に効くことが多いから。(2014・10・7)