與那覇潤さんの『中国化する日本』は、妙に気になる視点のユニークな本だった。その後、彼が躁鬱病になったとの話が届いた時はショックだった。若いのに惜しいなあ、との思いが強かったのである。それだけに、大学は辞めたものの、物書きとして復活したとのニュースは嬉しかった。もう、カムバックから4-5年経つが、先日雑誌『Voice』2月号で久しぶりに論考を発見し、熟読した。『繰り返されたルネサンス期の狂乱』である。「(コロナ)危機への対応を先進国の政治家や知識人が誤った結果、知性への信頼を完全に崩壊させた」との指摘から始まり、このことを「世界史の中にどう位置づけるか」との問題提起は、極めて重要であり知的興味がそそられる▲「知性の崩壊」は、今や誰の目にも明らかになってきている。とりわけトランプ米大統領の振る舞い及び周辺の動きは「米国の分断・分裂」を明確にしただけでなく、日本にも「謀略論」の復活をもたらそうとしている。そんな状況のなか、『日本人はなぜ存在するか』を読んだ。「日本人とはいったい何か」とのテーマを巡って、国籍、民族、歴史に根拠はあるのかどうかを、社会学、哲学、人類学など様々の学問のアプローチを駆使して探っている。それはそれで興味深いのだが、より惹きつけられたのは、最終章の「解説にかえて平成の終わりから教養の始まりへ」だ。とくに、大学がこれから「独学との競争」に晒されるとのくだりは面白い▲AIの進展と共に、大学で教授から学ばずとも、スマホでグーグルにアクセスすれば、解は一発で求められる。かつての「知への山脈」はいとも簡単に崩れ去り、我々の眼前にそれは皿の上の手料理のように横たわっている。何の苦労もせずに先人の築いた「知の宝庫」が誰にでも手に入れられるのだ。時あたかも、コロナ禍でフェイスツーフェイスの教室での聴く講義から、オンラインでの見る講義が余儀なくされている。いやまして「独学の時代」の到来だとも言えるのである。大学教授はオンラインの狭間で独自の価値を編み出せるかどうかが問われ、学生の方は、単なる独学以上のものを、教授からどう得ていくかが求められてくる。この本は、大学の教授として脂の乗り切った矢先に躁鬱病を患った人の手になるものだけに、より「知性の存亡」が問われることがリアルに見えて来て興味深い▲この本は様々な意味で、今の時代の切り口のようなものを提起してくれている。それは「国家の擬人化」といった一見硬いとっつきにくい政治論的テーマから、「『シン・ゴジラ』『君の名は。』などといった一見柔らかい文化論的テーマまで、広範囲に料理してくれていて参考になる。著者はご自身の病気の体験談を含めて、平成という時代と真正面から取り組んだ『知性は死なない』というタイトルの本を少し後に出している。この本の続編の趣きがある。その意味では、わかりづらく食指が動かない危険のあるタイトルよりも『知性は死にそう』とか『死に瀕した知性』と言う風なものの方がいいかもしれないと思ってしまう。(2021-2-5 一部再修正)