(376)人の精神への処方箋と、文明への見立てとー中井久夫『分裂病と人類』を読む

前回紹介した与那覇潤さんの論考(『繰り返されたルネサンス期の狂乱』)の中で、私がもう一つ注目したのは中井久夫さんの『分裂病と人類』について触れられていたことである。この人は神戸に住む精神科医で、文筆家としても名高い。かつて私は『日時計の影』(2008年)『樹を見つめて』(2006年)を感動のうちに読み、読書録にも取り上げたことがあるが、この本は更に20年ほども前の1988年に出版されている。学術書風の硬いもので読みやすいとはいえないが、意を決して挑戦してみた▲最後の最後に「終わりにー〝神なき時代〟か」に接して、愕然とするほかなかった。「〝司祭〟を越えて殆ど〝万能者〟〝全知者〟として患者に臨まんとする医師の内なる誘惑が(実は医療の技術的未成熟による面が大きいのであろうけれども)、今日ほどたやすく診察室で実現しうるときはおそらくない」と述べた上で、「精神科医が、神の消滅しつつある時代に司祭あるいは神にとって代わろうとするのか。この誘惑の禁欲において医師としての同一性を保持しつつ患者に対しつづけうるのか。これは西欧精神医学の問題であるとともに、その枠を越えた現代の問題、特に日本(とあるいはアメリカ)の問題であろう」と結んでいる。いささか持って回った表現で解りづらい。要するに著者は〝神の代理人〟としての精神科医の危うさを吐露されているように、わたしには読める。それから40年が経った今も、この病をめぐる状況は殆ど変わりないように思われる▲一方、この本では、ルネサンス期の「魔女狩り」の史実を追っていて知的刺激を強く受ける。実は与那覇さんは、前述した論考で、「魔女狩り」と、現在における「反知性」の謀略論の台頭との類似性に着眼している。しかもその上に、「『西洋近代』を生み出す際の陣痛だったともいえるルネサンスのダークサイドは、目下の世界情勢とよく似て」おり、「いわば『中国主導の脱近代』への過渡期における『第二のルネサンス』が今起きているのだと見ることも可能」とまで読み取っている。加えて中井さんが「ルネサンス時代は異能を持たぬあたりまえの人が生きにくい時代であった」というルネサンス歴史家・塩野七生さんが繰り返す言葉に注目していることも見逃せない。この本は患者としての与那覇さんを見事に甦らせ、ついでに読者をも魅了させるのだ▲以上のように、この本は精神科医としての中井さんの二面性ー精神を患っている患者に対する医師の姿勢と、文明の病的側面を診る文明史家の態度ーが窺えるものとして、実に〝面白く〟読めた。なかでも第二章「執着気質の歴史的背景」での「文学的脇道」がいい。江戸期から明治期にかけての士農工商各階層ごとの倫理を語って、すこぶる惹きつけられるのだ。二宮尊徳、大石良雄、森鴎外、芥川龍之介らが俎上に昇っているが、とくに鴎外についての記述には関心を持った。「鴎外山脈」とも称される膨大な作品から、その一生を集約するものとして、詩「沙羅の木」を挙げている。「日露戦争における戦死の予感」としての「(鴎外)自らへの悼みの詩」は忘れ難い。「褐色(かもいろ)の根府川(ねぶかは)石に 白き花はたと落ちたり ありしとも青葉がくれに みえざりし さらの木の花」ー残された我が人生で、掴み損ねて置き去りにしているものを味わい尽くしたいとの、切なる思いが募ってきた。(2021-2-12)

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