退屈さを忘れさせる若きチェーホフの話(70)

自分が好きな書き手がその本の中で推奨しているものにはすぐに触手が動くものだ。先に古田博司さん(筑波大教授)の『ヨーロッパ思想を読み解く』を読んでいると、あれこれと本やら学者、評論家への誘いや注文がでてきた。なかでもチェーホフの『退屈な話』についてのくだりに惹かれた。「学者にも知性や理性の欠けた人がいる。勉強と研究で悟性だけを集中的に鍛えるからだ」として、悟性を働かせ過ぎると、概念に頼り過ぎるようになり、時代の変化とともに、現実的な妥当性を概念が失うと、そうした学者の権威は急速に失墜すると古田さんはいう。このチェーホフの本では「晩年にこの事実に気づいた老教授の悲しむべき述懐が象徴的に描かれている」、と。チェーホフとはあまり馴染んでこなかったが、選挙戦のさなかの移動時に読み進めた▼『退屈な話』の翻訳をした松下裕さんは、(きわめて読みやすく分かりやすいので、私はかなりの名訳だと思うが)「解説」で興味深いことを述べている。チェーホフが「死を目前に控えて生涯『共通の理念』を持とうとしなかったことを自覚した人間として主人公を描いた」うえで、「家庭からの疎外感と、学問的名声が人生のどんづまりに来てなんの役にも立たない惨めさとが、その生き方に対する応報だった」と。また、「老教授が次第に陥る人びととの『共通理念』の喪失こそが実生活上の無能力を生み、社会の停滞の原因となる、とその人間的堕落を警告している」とも指摘する。ここでチェーホフがいう「共通の理念」とは、「他者と『共生』して行こうとする意志」をさし、それを持つためには、「他者の生き方に対する生き生きとした関心が必要」なのではないかと松下さんは説く▼ここらの松下さんの読み方には、いささか違和感を感じる。私の耳にはまた違ったチェーホフの声が響く。「自分自身を突きつめたいという気持にも、あらゆるものについて自分の作り上げているすべての思想、感情、観念にも、それらをみな一つに結びつける何か共通したものがないのだ」というチェーホフは、さらに「どんなに敏腕の分析家でも、いわゆる共通理念、あるいは生身の人間の神を見いだすことはできないだろう」と述べている。ここでいう「共通の理念」とは、松下さんの言われるようなものではなく、私には、世界を解釈する上での適切な哲学思想を指すものだと思われる。それは古田さんのいう、時代進展のなかで現実的妥当性を欠いてしまう概念に依拠する科学ではない。そうした人びとに共通の哲理のようなものを持たないと、必ず人はその生の最終局面で途方もない行き詰まりを感じるはずだと信じる。私には、『退屈な話』の主人公が単なる科学信仰に生きて、晩年になり、その信じてきた科学が何の役にも立たぬ時代遅れのものと知って、茫然示寂としている姿がきわめてリアルに分かる。かつて若き日にそうならないように「共通の理念」「生身の人間の神」としての日蓮仏法を選択したという自覚があるからだ▼それにしてもチェーホフが『退屈な話』を書いたのが29歳だったというのには驚く。1860年に生まれ1904年に死んだ。これは、日本でいえば、明治時代とほぼ重なる。中国でいうと、この本が書かれた頃は清朝末期で、いわゆる洋務運動華やかな頃だ。ヨーロッパ近代文明の科学技術を導入しようと躍起になっていた頃だ。チェーホフは、『退屈な話』の中で、「科学は人類に何をもたらしたのか。学のあるヨーロッパ人とさっぱり科学を持たない中国人の違いといったって知れたもので」と同僚の文献学者に問いかけさせ、「中国人たちは科学を知らなかったが、だからといって彼らは何かを失ったでしょうかね」と続けている。そしてこれに「わたし」が「蠅だって科学を知らないがね」とまぜっかえす。このあたりに若さを感じると言えば、飛躍だろうか。日本も中国と五十歩百歩だったわけだから、笑えぬチェーホフの東洋認識ではある。古田博司さんの作品にはかつて学生時代に永井陽之助先生の謦咳に接した私の若き日を思い起こさせる。いや、哲学への造詣の深さからするともっと上かもしれないなどと、勝手な思索の水滴は弾む。(2014・12・17)

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