秋の日はつるべ落としというが、私の場合、それはついこの夏に突然やってきた。これまでも徐々に歳を意識する場面に事欠かなかったが、今度ばかりは衝撃を受けている。正座が出来ず、あぐらがかけないのだ。昨今、椅子を使うことが常で、滅多に直に畳の上に座ることはなかった。ある日、座ろうとすると、右足が痛くて曲がらない。左足は左外へ回せない。しゃがむことさえままならないのである。先輩たちが会合でも、食事処でも、椅子を常用していたのを他人事と思っていたのだが、ついに自分にお鉢が回ってきた▲ボーヴォワール『老い』をNHKテレビの『100分で名著』で上野千鶴子さんが取り上げた(6月最終月曜日から毎週月曜放映)ので見た。と共に、テキストも読んだ。朝吹三吉さん訳本は上下2巻、しかも二段組の大部とあって敬遠。せめて解説本だけでも、とばかりに。上野さんについては6月16日に放映された『最後の講義』なるBSの番組も見ている。この人はボーヴォワール『第二の性』が刊行される直前に生まれ、それが世界中で話題となる過程で幼女から少女へと育った。ボーヴォワールを強く意識する中で社会学者となり、女性の権利擁護を叫び、高齢者福祉に取り組む。私の認識は「おひとりさま」なる用語を駆使する〝うるさいおばさま〟というものぐらい。背中だけ見ていたが、ようやく三つ歳下のこの人の顔をマジマジと見ることになった▲この本で最も関心を引いたのは、「老いーそれは言語道断なる事実である」との言葉と共に掲げられた6人の知識人たちの老年期の「事実」だ。例えばゲーテの場合。「ある日、講演をしている途中で記憶力が喪失した。20分以上もの間、彼は黙ったまま聴衆を見つめていた」ー彼を尊敬する聴衆は身動き一つしなかったし、やがてゲーテは再び話し始めたという。このことで私が見た二つの事例を思い出す。ある有名な先輩女性議員のケース。講演の中でしばしば沈黙された。明らかに言語障害と思われた。後の機会でも同様な場面が続き、やがて引退へと。もう一つはNHKラジオの解説番組に登場したある学者のケース。いきなり意味不明の発言を連発。司会役が「先生、朝早いからですか?それはどういうことで?」と幾たびも不可解さを指摘したが、事態は変わらずそのまんま。やがて放送時間の10分は終わった。一切説明はなかった。いずれも「老い」がもたらす災いに違いなかろう▲ヴォーボワールは学者、芸術家など知的職業人の「老い」に辛辣な見方をした。例外は画家と音楽家。上野解説では何故かは触れていない。私見では感性中心の、時代を超越した芸術分野と、理性が幅を利かす分野との違いだと思われる。政治家についても厳しい見方を提起している。「時代とより密接な関係にある」ために「(自分自身の)青年期とはあまりにも異なる新時代を理解することに、しばしば失敗する」として、代表例に英国のチャーチルを挙げている。第二次世界大戦の英雄だったが、平和期にはおよそ平凡な宰相として顰蹙を買う存在になり下がった、と。「老い」の視点を導入しないと人の一生の評価は見誤る。秀吉は日本史での最たる例であろう。さて、もはや取り返しのつかない老人になったものはどうするか。私には秘策があるのだが、ここではヒミツにしておき、明かさない。(2021-7-5)