[12]直木賞作家の「聞くも涙」の挑戦ープラ・アキラ・アマロー(笹倉明)『出家への道』を読む/12-22

 直木賞作家が人生に転落したすえに、異郷の地で僧侶になるーこのこと自体が小説のテーマになりそうだが、ご本人の手になる『出家への道』という本を読んだ。著者は、前々回に取り上げた、歯にまつわる対談本の河田歯科医の相手方・笹倉明氏である。この人の本は、出世作を始め何も読んではいない。対談を読んで、団塊の世代の責任を指弾されるくだりが気になり、表題作を手にした。驚いた。比較的若くして大なる賞を得ていながら、身を滅ぼす流れ抗しがたく、多大の借財を負い、妻子(しかも複数組)と別れ、タイへの逃避行に身をやつす◆この本は、構成が一風変わっている。ご本人の転落の顛末と、出家に際しての儀式めいたものの一部始終が交互に出てくる。つまり、前者は奇数章に、後者は偶数章に、といった具合に別けられているのだ。日蓮仏法の実践者たる当方としては、直木賞作家が何故に、破滅の道に陥ったのかも興味あるテーマだし、現代における小乗仏教の牙城ともいえるタイの僧侶の生活も気になる。このため、まずは奇数章を全部読んだ後に、出家式を通してのタイ仏教のさわりを垣間見た。圧倒的に、前者の方が読み応えがあった。いかなる分野であれ、いい調子になってる向きには一読をお勧めしたい。明日は我が身とは言わぬまでも、リアルな〝一寸先は闇〟のモデルである◆そんな中で、私が興味を唆られたのは、団塊世代についての自虐的としか言いようがないほどの論及である。戦後民主主義教育の持つ致命的欠陥が、いわゆる躾けの欠如と無責任なまでの自由放任にあることは論をまたない。学歴至上主義による受験勉強一本槍の教育がもたらした荒涼たる風景は、著者に指摘されずともよく分かる。だが、いかに自分自身がまともな教育を受けてこなかったかを、手を変え品を替えて繰り返し訴えられると、妙な気分になる。「それって、言い過ぎじゃない?ご自分の根本的な性癖を棚上げして、制度や仕組みのせいにしすぎじゃあないか」と◆日本で食いつめて、東南アジアに流れる人が少なくないことは分かるが、現地で僧侶になる人は、この人をおいて他に私は知らない。その意味で、これからどう変化されるかが俄然気になる。奇数章を読んだ限りでは、およそいわゆる真人間になるのは難しいと思われる。仏門に入って5年ほどが経たれるようだが、時々日本に帰り、先に紹介した対談本を出版(これは手紙形式かもしれぬが)したり、またこの著作もものされているということは、俗世間への思い断ちがたいものがあると容易に想像できる。タイで僧侶をしている分において食い繋ぐことは出来ても、それを足掛かりに、物書きへの復帰心断ちがたいのなら、結局は元の木阿弥が関の山ではないかと、思ってしまう。同時代人として、大乗仏教の翠たる法華経に身を挺してきたものからすると、タイで乞食行に励む著者の姿はただただ哀れを催す。勿論、見事に変身され、日本に僧侶として凱旋されることも期待したいのだが。(2021-12-22)

 

 

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