[15]積年の気掛かり吹き飛ぶー創学研究所編『創学研究1ー信仰学とは何か』を読む(上)/1-8

「創学」とはまた聞き慣れない言葉である。キリスト教における「神学」と相関関係にあるものとされる。創学研究所は、つい3年ほど前の2019年4月に設立された。松岡幹夫氏が中心となって立ち上げられたもので、この本が「創学」の出発点であり、現時点での研究所産のすべてになるものと見られる。意欲的な論考や対談、鼎談が満載されており、知的興味を超えた信仰的刺激をたっぷり受けることが出来た。松岡さんの著作についてはこれまで数多く読んできたが、『日蓮仏教の社会思想的展開ー近代日本の宗教的イデオロギー』が最も印象に残っている。作家でキリスト教神学に造詣の深い佐藤優氏との〝二人三脚的関係〟も、昨今つとに知られているが、この本では改めてその絆の深さに感じ入った◆この本を通して、多くの発見や気付きがあったが、ここではほんの一例を挙げてみる。それは「信仰的中断」との概念についてである。これまでの56年を超える信仰生活で、常に私の頭を離れなかったのは、理性的思考と信仰との両立である。疑うことと信じることは正反対の位置にある。日常的にも「思考停止」は悪とされ、考え続けることの重要性は自明の理である。それを日蓮仏法の門を叩く際に、仏の教えは、はなから正しい、その通りですとの姿勢から出発すると聞いて、抵抗感がなかったかというと嘘になる◆しかし、下世話な言い方をすると、文字通り試しにやってみたら、良い結果が出たがゆえに、あれあれっていう感じが続く中で、今があるというのが偽らざる実態である。その仕組みについて、こう説明されている。「あえて、我々は信仰は思考の中断から始まると訴えたい。その意図は自己自身の思考の方法論的死である。決して思考の全面的停止ではない」「思考再生のために、自らの小さな思考を方法論的に殺す。それゆえ、信仰的『中断』と称し、思考停止の一時性を強調する」ーこの解説を読んで、なるほどと心底から得心がいった。折伏の場面で、「下手の考え休むに似たりだよ。我見を一旦捨てて、こっちの話を聞きなよ」と言ってきたことを思い出す。「信仰的中断」をめぐるこの本での絶妙の言い回しに深い感動を覚えるのは私だけではあるまい◆尤もこれは、入り口の段階でのことであって、一旦中に入ると、武芸の道と同じように先達の教えに従うしかない。つべこべ言わずに、ひたすら練習して、基本の繰り返しをするだけである。ただ、この最初が肝心で、一つ間違うと負のスパイラルに陥る。であるがゆえに、皆躊躇するのに違いない。私の場合はレアケースかもしれないだろう。この偉大な仏法にめぐり合い、池田先生という稀有の大師匠と若くして出会った我が身の福運に大感謝するしかない。懐疑の連続。考えに考え抜く日常生活の中で、随所で「信仰的中断」を織り交ぜるー我が身についたこのリズムを改めて確認できた。これを始めとして、この本では深い思索と信仰実践から紡ぎ出された貴重な「考産」が次々と登場してくる。積年の懸案が一気に吹き飛ぶ思いがしてならない。(2022-1-8)

 

 

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