【18】風化する「戦争への感性」ー伊藤絵理子『清六の戦争ーある従軍記者の軌跡』を読む/1-22

 人と人が殺し合う戦争ー日本はそれを起こした結果、敗れてひとたび滅びた。今から77年前のことである。私はその年・1945年(昭和20年)にこの世に生を受けた。いわゆる戦記物は数多く読んできたが、いつの日か読まなくなった。読んでも気分が晴れないからである。新聞記者である著者が、自分の祖父(従軍記者)の戦争報道を追ったドキュメント風のものを久しぶりに読んだ。「戦争の描き方に、この方法があったとは!」と感嘆する加藤陽子東大教授と同様に、私も珍しさに惹かれたのである。戦場になった中国の人びとと、そこまで彼らを殺しに行った(結果的に)日本人。改めて隣国同士の不幸な歴史と位置関係に考え込まざるをえない◆私が直接聞いた「戦争体験」は、我が父母の従軍した兄弟たち3人からだ。うち一人は陸軍少年航空兵に志願し従軍、フィリピンマニラのイポで片腕を失って帰ってきた。その叔父の肩先から伸びた装具の先端の〝鉤型の手〟と共に、忘れられない言葉がある。「マニラ湾に沈み行くあの大きくて美しい太陽を見たことのない人間に戦争を語る資格はない」ー新聞記者として安全保障問題に取り組みはじめていた私に、投げかけられた。戦争を知らない世代が何を論じても、結局は空理空論に過ぎない、と言いたかったのだろう。マニラの夕陽と重ね合わせたところに、その叔父のリアルを感じて、黙るしかなかった遠い日を思い出す◆この本の著者は同じ新聞社の先輩記者だった祖父清六の足跡を丹念に掘り起こし、南京へ、マニラへと足を運ぶ。あの「南京大虐殺」の現場に行き、「捕虜の殺害」に関わる清六の報道の痕跡を追ったくだりと、著者が自身の子どもと一緒に訪れた「記念館」での体験には息を呑んだ。「清六は南京で何を書いたのか」ーこの一点に著者の関心は集中し「必死になって記事を探し続けた」ことは当然だが、結局見出し得なかった。その空白を埋めるかのように、南京事件を伝える記念館での体験が語られる。「報道統制の中で戦場の惨状を伝えなかった記者たちが、虐殺などを行った『加害者』の一員であるという事実は重い。日本軍が中国人に対して行った非道な行いを目の当たりにし、私は申し訳なさといたたまれなさを抱えたまま、記念館を後にした」と◆一方、フィリピンでの清六の足取りは、陣中新聞『神州毎日』を洞窟等で発刊し続けた後、マニラ東方のヤシ畑で栄養失調での最期を迎える。「神州毎日は将兵愛好の的で至るところ引張凧であった」との記述が清六の彼の地での日常を物語っていると、私には見える。著者は、末尾近くで「どうすれば、戦争をあおる記事を書かずにすんだのだろう。故郷を遠く離れた場所で死なずにすんだのだろう」と、問いかけ「戦争へと時代の流れを推し進めた記者の責任は重い。そして、私自身を含む誰もが『清六』になりうることに身震いする」ーこの本の流れと結末を読み終えて、どうしてこれが二つものジャーナリストを称える賞を受賞したのか。正直いって私には分からない。75年前の記者を今の記者が追う旅に出た記録。一呼吸終えたのちに、この顛末にさして感じない我が感性の衰えー「風化する戦争体験」に愕然とする。さて、イポの戦闘で重傷を負い、米軍医に片手切断の手術を受けた我が叔父。その子や孫はこれをどう読むか。そして貴方ならどう読まれるか。(2022-1-23 一部修正)

 

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