【34】日蓮仏法とキリスト教の類似性を探すー谷隆一郎『人間と宇宙的神化』を読む/5-13

 私にはとても難解な本だった。幾たび投げ出そうと思ったことか。だが、その都度、古い友人の大事な著作を、碌に読みもせずにわからなかったとは言えないと、思い直した。見慣れぬ表現に呻吟し、難しい言い回しに辟易しながら、懸命に頁を繰っていった。谷隆一郎とは、知る人ぞ知るキリスト教哲学者。実は、我が母校・長田高校の16回生の同期でもある。彼は東大工学部を卒業したが、後に文系に入り直した。文学博士になり、九州大学専任講師から最終的には人文科学研究院の教授(今は名誉教授)になった。若い頃には、中世スコラ哲学を専門にし、トマス・アクィナスの研究をしていると、風の噂で聞いていた。その昔、福岡に遊んだ時、彼が連れて行ってくれたとあるバーに東大卒の魅惑的なママがいた。彼女が歓談の途中に、やおらカウンターの脇辺りから絵を取り出した。ピカソの描いた小品だった。妙に組合せが新鮮で驚いたことを今も覚えている▲あれからあまり交流もないまま40年ほどの時が経った。それが突然また局地豪雨のように、手紙のやり取りをすることになったのは、「東洋哲学研究所」の親しいメンバーとの会話がきっかけだ。谷隆一郎氏と私が友人だと言うと、とても驚かれた。「あんな凄い先生と、赤松さんが‥‥」と、絶句された。キリスト教哲学者と日蓮仏法を信奉する政治家とに、お互い歩んできた道は違ったものの、16歳から3年間、同じ徽章の帽子を被った懐かしい仲間なのである。優しい目つきとおっとりした風貌が、今もなお鮮やかに思い浮かんでくる▲この本は、「東方ギリシア教父、ビザンティンの伝統の集大成者である7世紀の証聖者マクシモスの思想を明らかにした、我が国初の本格的業績」と、される。意外にもか、当然と見るべきか、仏教との類似性を感じた箇所が幾つもあった。例えば、「われわれは他者との様々な関わりにあって、陰に陽に人を裁いたり、何らかの欲望や妬みなどに動かされたり、あるいは空しい虚栄や傲りに捉われたりすることがあろう。そうした情念を自ら是認し、執着することによって、われわれは、自分自身の存在様式の欠落を招いてしまう」(73頁)ーこれは、われわれ風に理解すると、「十界論」の領域のことかと思われる。遭遇する環境に応じ、体内にある十の範疇のもとの生命状態が湧き出でてくる、というものだ。そのコントロールは唱題によるのだが‥‥。更に、「われわれが、外なる世界にいたずらに神を探し求めても、神はそれ自体としては見出されない。(中略)  すなわち、『わたしは在る』たる神は超越の極みであって、この有限な世界のどこにもそれ自体としては現れない。しかし、諸々のものは、あたかも神的働きのしるしないし、足跡であるかのように、遥かに神を象徴的に指し示しているのだ(ローマ一・二〇)。」(45頁)   ここは、神を仏に置き換えてみるといいだろう。そうすると、「働きのしるしないし、足跡」とは、菩薩界のことに見えてくる。そう、「仏界ばかりは現じがたし」との表現と相重なって、現実世界では菩薩の働きが仏界の象徴として具現化されることに気付く▲日蓮仏法徒とキリスト者の違いを、信じるものの形態で比較すると、御本尊にお題目をあげる姿勢と、イエス・キリストの受難の像をおもい浮かべて十字をきる態度になろうか。その究極は、仏にならんとの思いと神に向かわんとする祈りに比せられる。そんな比較心で、第九章「受肉と神化の問題」を読むと、興味深いくだりにでくわした。「われわれにとって神化の道とは、己に閉じられた単純な自力によるものではない。(中略) 人間にいわば創造のはじめから刻印されていた自然・本性的力(可能性)が現に開花し発現してくるのだ。そしてその道は、われわれが能う限り己を無みし、神的エネルゲイアに聴従してゆくという自己否定の道行きとして、はじめて現実に生起してくるであろう」(241頁)というところだ。これこそ、われわれ仏法徒が朝な夕なに御本尊を拝し、南無妙法蓮華経と唱える姿と同趣旨のことを言ってるように思われる。その行為こそ、万人各々の生命内に存する仏界という最大の自己の持つ可能性を開花させ、涌現することを意味する。「能う限り己を無みし、神的エネルゲイアに聴従云々」とは、一心不乱に、広宣流布を祈ることと同義であろう。違いよりも、類似点をあげる方が異なる存在の行く手を平和なものにすることは、ここでもあたっている。信仰生活57年にして、まじめにキリスト者の本を初めて読んだ。今後の我が行く手に与える影響やいかに。(2022-5-13)

 

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