(95)「見えない世界」に近づくセンスを磨く極意 佐藤優世界史の極意を読む

元外務省の役人で今は作家の佐藤優さんは、この10年余りですっかり現代日本の青年たちにとっての思想形成のアドバイザーになった感がする。同時並行で雑誌に書きおろす一方で、ありとあらゆるジャンルの人々との対談をし、それらをまとめて出版する姿は驚異的だ。単に書きなぐり喋り散らしているのではない。一つひとつに関連、参考書のたぐいを巻末に挙げて、遅れて来る青年たちを、自ら考える習慣を持つ世界へと誘う。私も随分とお世話になってきた。一つひとつを吟味し料理するだけの知力と理解力が私には残念ながら不足している。このため、まとめてさわりだけを披露するというズルをここでは決め込ませてほしい。皆さんそれぞれの挑戦に期待しながら▼まずは、『世界史の極意』。歴史をアナロジカルに(類比しながら)読み解くという作業ほど魅惑的なものはない。先の大戦直後に生まれ、冷戦期に育った私などは、古今東西の歴史についてそうした営みをあれこれと試みたものだ。しかし今、国際政治は米ソ二極対決から多極化へと変化し、民族、宗教問題が一段と噴出しだした。今こそ、より一層鋭く正鵠を射るための手立てを持たねばならない。この本で著者は「プレモダンの精神、言い換えれば『見えない世界』へのセンスを磨くこと」の重要性を繰り返し説く。「見える世界」の重視という近代の精神は、旧・帝国主義の時代に戦争という破局をもたらした。これからの時代(彼は「新・帝国主義の時代」と規定)は目には見えなくとも確実に存在するものが再浮上してくる、と見る。つまるところ宗教に対するアプローチの必要性を強調しているのだ▼彼はあまねく知られているようにプロテスタントのキリスト教徒である。その立場から『初めての宗教論』右・左巻二冊を書いた。それぞれ「見えない世界の逆襲」と「ナショナリズムと神学」との副題がついている。神学の細かいところは正直よくわからない。かつて私たちは、キリスト教を「科学に逆行する非科学的なもの」と断罪した。「右の頬を打たれれば左の頬を出せ」と出来もせぬことをうたう非現実的な教えだと一刀両断にしてきた。今でも環境・自然破壊の遠因は、人間と自然を対立的に捉えるキリスト教の思想の浅さにあるなどといったステレオタイプ的思考から抜け出せないでいる。この2冊を読むことでそうした見方から脱却できるとはとても言えない。ただ、左巻でのキーパーソンであるフリードリッヒ・シュライエルマッハーについては改めて注目させられた。このひとは「宗教の本質は直観と感情である」とし、また「絶対依存の感情である」とも定義した。要するに、神様は天上のどこかにいるのではなく、「各人の心の中にいる」とした。佐藤さんはこれを「神を『見えない世界』にうまく隠すことに成功したと言ってもいいかも」と述べていることは、言いえて妙で面白い。先に池田大作先生とアーノルド・トインビー博士との対談を読み解いた『地球時代の哲学』のなかでの「直観」についての言及を思い起こす。曰く「池田大作氏が言う直観は、同時に内観なのである。内観とは、時間や空間の次元を超えた、物事の本質を瞬時に、言語化、論理化することなしにとらえることだ」と。このあたりも含め佐藤氏の宗教論は、私のような日蓮仏法者にも今後に研さんへの刺激をもたらす▼多彩な対談本の中から最近読んだものを一つ。異色の女流作家・中村うさぎさんとの『死を笑う』である。原因不明のいわゆる臨死体験をした中村さんと、鈴木宗男事件で社会的な臨死体験を経験した佐藤さんとの対談はなかなか興味深い。「死」をテーマにしながらも気楽に読める小話の連続だ。佐藤さんの父上がモルヒネも効かないという激痛のなかで医者に罵詈雑言を浴びせたという。確かに「痛みは人格を変える」というほかなく、対処のしようがないことに気が重くなる。また、鈴木宗男氏を役人が苦手としたのは、「昔脅かされた不良と二重写しになる」からだというのには、大いに共感し笑える。そんな中で、彼は「死を意識していると、持ち時間が限られているということを常に意識する」から、「文章も引き締まる」と一般論を述べる。だが、自分はそれとは違って「のべつ幕なしに仕事を引き受けてる実務家はダメ」と否定する。かつて外務省の誰だったかが「佐藤があれだけモノに憑かれたかのように書くのは、自らの死期を意識してるに違いない」といってたことを思い出す。さてどうだろう。恐らくはモノを書きだした最初の頃と今とでは違ってきているのではないかと思う。(2015・4・29)

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