長い長い物語を書き終えて、そこで力尽きたかのように亡くなった作家がいる。船戸与一さんだ。私個人は直接会ったことはない。しかし、彼と親交を深めていたひとが身近にいる。市川雄一元公明党書記長である。自ら作家志望であったことを折あるごとに語り、「書きだしの研究」なる大変に興味深い小論をものしているひとだけに、作家との交流も少なくなかった。とりわけ公明新聞編集主幹時代に新聞小説の連載を依頼するべく名だたる作家と次々と会っていた時期がある。そのうちの一人が船戸さんだ。船戸さんは、市川氏が如何に彼の作品を深く読んでるかについて讃嘆していたという。その市川氏から勧められ、随分と苦労しながら私が読み続けたのが『満州国演義』全九巻だ。第一巻の「風の払暁」が出版されたのが07年4月だからもう8年前。以来ほぼ一年に一冊づつ出されてきた▼このたび最終巻の「残夢の骸」を読んでる最中に訃報を聞き、慌ててそれまでのちょびちょび読み進めるのをやめて一気に読み終えた。原稿用紙7500枚、一冊500頁平均だから4500頁の本は書くほうは当然のことながら、読むほうも大変である。昭和3年から説き起こされ、終戦の20年までの昭和史を満州ー中国東北部で起きたことを中心に描いたこの小説は、私のような戦後世代にとって一番の盲点ともいうべき時代を扱っている。満州地域については、戦前戦後に生きる日本人にとって大きく軽重、浅深が分かれる関心事だと思われる。満州に理想郷を夢見た人々はすべてを擲ってかの地に渡り全人生を賭けた。一方、秀吉いらいの日本人の野望を苦々しく見ていた人たちは、戦後の引き揚げひとつにも冷淡な思いを持った。船戸さんは、この小説に太郎、次郎、三郎、四郎という4人の兄弟を登場させ、外交官、馬賊、憲兵、演劇学徒という4種の身分をあてがって、それぞれの視点から描くというユニークな手法をとっている▼満州国の興亡というテーマはそれなりに十分に面白く、日本が明治維新から80年にわたる軍国主義の歴史の行きつく先を描いて果てしない。その中でやはり”脱日本の風景”をくまなく味合わせてくれるのは次郎の世界だ。私はかつて中村三郎天風先生の謦咳に接する機会がほんのちょっぴりとだけあった。この人はかつて満州の沃野を馬賊の一人として疾駆した経験を持っていただけに、なんだか次郎が登場すると、天風先生とダブって見えた。ともあれこの小説は、明治という時代の暗部が破綻するさまを、”殺しと性行為と食べる”という人間の本能の赤裸々な展開を隠し味にして物語っていると云えよう。9冊を前にして、その3本能の露骨な表現のみが蘇ってくるというのも恥ずかしい気がするのだが▼つい先ごろに読み終え、ここにも取り上げた『明治維新という過ち』では、テロリストとしての吉田松陰や如何に薩長・維新政権が残虐非道の行いをしたかが説かれていた。それに比してどれだけ会津が悲劇のヒロインやヒーローの地であり、爽やかな士道の担い手であったかが語られていた。実はこの『満州国演義』の冒頭に、「会津戊辰戦史」の一節から船戸さんが想起した場面が描かれている。これこそ全編に基底音として奏でられる哀しい響きだ。会津の女を凌辱する長州の男の破廉恥な姿は、この本の中で形を替え、姿を変えながら繰り返し登場する。この場面は重要な伏線をなしているのだが、あたかも「明治維新の過ち」が原因となって、結果として「昭和前史の過ち」に結実していったことを予兆しているかのように思われ、興味深い。(2015・5・15)