◆衆議院総務委員会での出会い
ラストバンカーこと西川善文さんが亡くなったのは、2019年の9月11日。生前に同氏が受けておられたインタビュー(2013年11月-2014年2月)をもとに、出版された『仕事と人生』を読んだ。この本を読むきっかけは、大阪のある中小企業(食品スーパー)の従業員の皆さんを前に、同じタイトルでお話をする機会が予定され、参考にしようと思ったことが一つ。もう一つは、この人と私には、一つだけだが忘れ難い接点があったからだ。
それは衆議院総務委員会の場でのこと。日本郵政公社社長としての西川さんに同委員会への出席を願ったのだが、その時の委員長が私だった。三井住友銀行の頭取を終え、郵政民営化直後の中枢として活躍をしておられた同氏。そして、私たちにはそれなりの因縁があった。
それは、私が銀行マンの倅であったということである。親父の背中を尊敬の眼差しで見ながらも、到底乗り越えられないがゆえに、私は銀行を就職先に選ばなかった。親父が私に銀行員になって欲しかったことは折りに触れ、陰に陽に聞かさていた。だが、その道に入ることの厳しさ、辛さをそこはかとなく知っていた私は、断じて避けたかった。親不孝者である。そんな私は、あろうことか親父が最も気に入らなかった「新聞記者の道」を選んだ。しかも、宗教団体が作った政党の機関紙という、およそ銀行とは縁遠い位置にある「仕事」をすることにしたのである。それには〝巡り合わせの妙〟があるのだが、ここでは触れない。2008年秋のこと、私の高校の同期A君と後輩S君が住友銀行出身で、入社当時に西川さんの厳しい訓練を受けた身であったことも手伝い、ひと夜、4人で「仕事と人生」を語り合いもしたのである。
◆失敗したら責任は自分が負う気構え
この本は、「評価される人」「成長する人」「部下がついてくる人」「仕事ができる人」「成果を出す人」「危機に強い人」の6つの章からできている。亡くなられてから、急遽遺稿を、ということで、慌てて用意されたことが見え見えではある。生前に出された、バンカーとしての回顧録と、日本郵政との取り組みへの意欲を示されたものとの別の二冊の方が重い価値を持つ、とは思う。しかし、より率直に西川さんのお人柄が滲み出ているのはこの本だろうと睨んだ。
例えば、「わかしお銀行との逆さ合併」についてのくだりが興味深い。ご本人も正直に「私自身、『奇策』と言われるような『逆さ合併』などやりたくなかったが、生き残るためにはしようがない」と、述べている。「感傷的な思いを押し切り、私は住友銀行の法人格を消滅させた」と、小さい下位の企業を残し、大きい上位の方を切った経緯を明かす。ここにこの人の真骨頂がうかがえよう。「失敗したら責任は自分が負う」との強い気構えである。
この本をつぶさに読んで、私には到底真似が出来ないことばかりだと、早々に白旗を掲げた。と同時に、私の仕事上のボスであり、上司であった市川雄一公明党書記長(元公明新聞編集主幹)を思い出す。このふたり、眼の鋭さが酷似していた。私とは正反対に6つのことがすべてできる人だったことは多くの人が認めよう。
その市川さんが常日頃口にしていた言葉で忘れ難いのは、「百人ほどを超える部下を持ったことのない人間に、真の意味での政治家は務まらない」というものがある。家族を含め生身の人々の生活をどう守るかということが寝ても覚めても気になる──こういった経験を持たない人間の責任感はたかが知れている、と。
それを聞くたびに、百人はおろか、まともな数の部下を持ったことのない私は恐れを抱いた。尤も、会社社長経験者なら政治家は務まるのか、と内心呟いたのだが。市川さんは、親父やじいさんから地盤、看板、鞄を継いだに過ぎない2世、3世議員を批判したかったのだろう。西川さんも政治家になっていれば、いい仕事をされたに違いない。
【他生のご縁 「西川学校」で鍛えられた友人たち】
私の高校同期のA君と一年後輩のS君は共に京大卒で、住友銀行に勤めていました。A君とは中学から一緒。S 君は熊谷組に出向して再建に尽力した強者。どっちもとても優秀な男たちでしたから、西川さんが二人を知らないはずはないと思って、国会の委員会の場でお会いした時に、聞いてみました。ドンピシャでした。入行した時の幹部候補生を鍛える担当が西川さんで、飛び切り念入りに指導訓育されたようです。ぜひ4人でお会いしましょうということになり、A、S両君とも実に久しぶりに会うことが出来たのです。
この時の話題は野球のことを始め多岐にわたり、まことに楽しいひと夜になりました。西川さんが猛烈な阪神ファンだったことに、南海贔屓だった私が〝セパの違いの講釈〟をたれました。この出会いを通じて私は親父を思い起こさざるをえませんでした。父は旧神戸銀行に一生を捧げたのですが、当時ひたすら仕えた〝岡崎忠頭取いのち〟の人でした。生きていれば西川さんとの出会いを喜んでくれたはずです。銀行員になることを嫌った私が、岡崎さんのずっと後の三井住友銀行頭取と一献傾けるに至ったことに。