◆「非核・軽武装・経済大国」路線
世に「棺を蓋いて事定まる」(人の真価は死後に定まるという意味)というが、事はそう簡単ではない。安倍晋三元首相が狙撃死に遭ってから1年余り、その評価は依然定まりそうにない。彼の死の直後に書いた論考(朝日新聞Webサイト『論座』)において、私は、光と影の両面からその政治的足跡を評価した。光は、混迷する国際政治の中で発揮された外交的手腕。影は内政面での反民主主義的ともとれる強権的手法。このうち、前者について、考えをめぐらす中で、吉田茂元首相との対比に思いが至った。興奮覚めやらぬ中で、岸田首相が「国葬」を決めたことから、1962年当時の吉田のケースと対比されてきたが、私の関心事はそれではない。日本の戦後外交史における吉田、安倍の果たした役割について、である。
吉田茂といえば、「吉田ドクトリンは永遠なり」との言葉を世に広めた政治学者の永井陽之助『現代と戦略』(1985年3月出版)を思いだす。世に出てから(初出は文藝春秋1984年1-12月号連載)、もう40年近くが経っており、国際政治学における古典といってもいい位置にあるとの評価が一般的だ。再読を思い立ったのは他でもない。この本は、読む角度を変えると、元外務省高官の岡崎久彦批判の書でもある。そして、岡崎といえば、安倍晋三元首相のご意見番ともいうべき親密な関係であったことはよく知られている。2016年発刊の「新編」(第一部)の方には、岡崎による反論と共に、永井との対談「何が戦略的リアリズムか」(1984年中央公論7月号)も併せて巻末に収録されており、極めて興味深い。遠い昔に読んだ記憶を後追いしつつ、「新編」を追った。取り扱われている素材は勿論、古い出来事ばかり。だが底に流れるものの考え方、掴み方は今になお有効であり、大いに参考になる。
永井はこの書の中で、吉田の「非核・軽武装・経済大国」路線を長く受け継がれるべきものとして位置付けた。確かに、吉田の用いた路線は、ドクトリンと呼ぶかどうかは別にして、この40年というもの、日本の国是とでも言うべき位置を形成してきた。しかし、改めてこの書を追っていくと、岡崎久彦への言及が目立つ。偶々、彼が『戦略的思考とは何か』を発表した直後でもあり、2人の間での積年の議論の焦点が改めて浮上したといえよう。
◆「政治的リアリスト」と「軍事的リアリスト」
永井は「政治的リアリスト」の自身に対して、岡崎を「軍事的リアリスト」と見立てて、多様な角度から論じている。とりわけ、「日本の防衛論争の配置図」(座標軸)は、論争的興味を惹きつけてやまない。永井からすると、アングロサクソン(米英)絶対視の岡崎への批判の眼差しが伺える。岡崎からすれば、吉田路線への反発があり、2人は食い違う。
慶大教授の細谷雄一は、安倍がかねて吉田ドクトリンを「安全保障についての思考を後退させた」と、否定的に捉えていた(『新しい国へ』)ことを紹介。その上で、「より厳しい世界の現実に直面する勇気を」持つものとしての「安倍ドクトリン」を推奨している(中央公論2022年9月号「宰相安倍晋三論」)。永井が岡崎を否定的に捉える背景には、軍事的リアリストの立ち位置に、フランスのド・ゴール元大統領風に自国の栄光を追う、日本型ゴーリストの影を見たからではないか、と私は見る。
40年前と違って、吉田の定めた路線を取り巻く環境は激変した。安倍の捉え方が、より正鵠を射てると思う向きは左右の立場を問わず多いように思われる。先の永井版「座標軸」で、「福祉と自立」重視のグループに組み入れられていた公明党も、その後大きく安保政策を転換した。「同盟・安全」重視の政治的リアリストの仲間入りをして久しい。今、永井ありせば、こうした変化を何というか。それでも「吉田ドクトリンを忘れるな」というに違いない。(敬称略)
【他生のご縁 謦咳に接し得たのは生涯の誇り】
菅義偉と菅直人──首相経験者の2人が共に、永井陽之助先生に影響を受けたことを国会の場でそれぞれ口にしたことがあります。また、渡辺喜美氏(元みんなの党代表)も菅直人氏への質疑の際にわざわざ取り上げていました。このうち、菅直人氏は東京工大の出身ですが、後の2人は法政と早稲田。どちらも学外から講義を聞きに行ったと思われます。それほど、先生の講義は当時の学生に聞き応えが轟いていたということでしょう。
遠い昔のことゆえ、慶大での講義の中身は定かではありませんが、私もその謦咳に接したことを生涯の誇りにしています。先生は総合雑誌『潮』にしばしば寄稿されており、公明党についての理解も同誌を通じてのことだったように思われます。私が大学卒業後初めて先生とお会いする機会も同誌関係者による懇談の場でした。先生は後年青山学院大に移られましたが、そこでの門下のひとりに防衛研究所の長尾雄一郎君が加わり(国際政治学博士)ました。彼はかつて私が激励した創価学会高等部員だっただけに、ことのほか嬉しい出来事でした。残念ながら47歳で同研究所第一室長の時に亡くなってしまったのは痛恨事でした。